やぎぃの日記(129)待ちに待った洗礼式


待ちに待った洗礼式
 12月11日、教会学校で長年にわたり中心的なリーダーとして活躍してきたU君がついに洗礼の恵みを受けた。クリスマスでの受洗に向けて準備してきたのだが、24日の晩はどうしても仕事を抜けられないということで、ならぱ「喜びの主日」である11日に洗礼式をしようということになったのだ。
 U君の受洗には、「待ちに待った」という言葉が本当にぴったりする。大学を出た後いつくもの困難に直面し、それでも教会学校の手伝いだけは決してやめようとしなかったU君を、みんな心から応援し、いつの日か洗礼の絆によって一つの家族として結ばれることを心の底から待ち望んでいたからだ。
 リーダーを始めて数年を経たくらいから、彼はときたま受洗をほのめかすようなことを口にしはじめたと言う。しかし、家が仏教だということもあって、受洗には踏み切れないままに更に数年が過ぎた。わたしが六甲教会に赴任したのは、ちょうどそのようにして彼が受洗を迷っていた頃だった。わたしがキリスト教入門講座を始めると、1年間休まずに通い、受洗のために必要な知識を身につけた。だが、それでもまだ迷いが続いていた。
 彼がついに決心したのは、今年の教会学校キャンプでのことだ。キャンプ最後の晩、リーダーたちの反省会が終わった後で一人のリーダーが、「そろそろ洗礼を受けたらどうだ」といつものように言った。半ば慣例化した呼びかけで、いつもは「まあ、そのことはまた」と笑ってごまかすU君が、なんとこのとき「うん、そうだね」と答えた。びっくり仰天した他のリーダーたちが、「えっ、どうしたの。本気?」と尋ねた。すると「さっきキャンプ・ファイヤーのときに子どもたちがほんとうに輝いていたのを見て、ぼくも昔あんな風に輝いていたころがあったのを思い出した。受洗してもう一度、あの輝きを取り戻したい」と、U君ははにかみ笑いを浮かべながら答えた。「神の子」として生まれ変わることで、もう一度あの輝きを取り戻したいというのだ。
 そして、ついに受洗の日がやってきた。仲間のリーダーたちは、ほとんど全員が涙を流しながら彼の受洗の様子を見守っていた。子どもたちも、目を丸くして彼の一挙手一投足に目を凝らしていた。ミサに参加した人々も心を合わせて祈り、聖堂は深い喜びと感動に包みこまれていった。これほどまでに感動的な洗礼式も、なかなか珍しいだろう。
 洗礼式が終わったあと、一人のリーダーが彼に近づき「これで、君も教会になったな。ぼくたちが教会なんだ」と声をかけた。まさに、それこそ受洗の意味だろう。はれてキリストの体の一部となったU君の上に、これからも神様の祝福があふれんばかりに注がれるよう祈らずにいられない。
※写真の解説…教会学校の子どもたちから花束を受け取り、満面の笑みを浮かべるU君。