バイブル・エッセイ(237)一筋の光明


一筋の光明
 通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:9-13)
 通りすがりにいきなり「わたしに従いなさい」と呼びかけられ、その後に従ったマタイの行動はとても不可解です。なぜこんなことが起こりえたのでしょう。マタイは一体、イエスの中に何を見たのでしょうか。
 実は、わたし自身にも似たような体験があります。今から17年前、カルカッタにいた頃のことです。「マザー・テレサのそばにいれば大丈夫だ」という直観に従って日本を飛び出し、カルカッタに腰を据えてボランティア活動に励んでいたわたしでしたが、その内心は決して穏やかなものではありませんでした。なぜなら、これから先のことが何も見えなかったからです。いつまでもボランティアをしている訳にもいかないし、かといって日本に戻って何か始めるにしても、何をしていいのか分からない。そんな中でわたしは悶々とした日々を送っていました。聖堂で祈っていても何の光も与えられず、深い心の闇の中で立ち上がれないほどの苦しみを味わったことさえありました。
 そんなある日、通りがかりにわたしを見つけたマザーが突然思いがけないことを言いました。「あなたは神父になりなさい」というのです。これまでの生活を捨てて修道会に入り、神父になろうなんて大それたことは一度も考えたことがなかったわたしでしたが、その言葉を聞いたとき不思議とマザーの言う通りにしてみようかという気持ちになりました。マザーの言葉の中に、わたしを闇から救い出してくれる一筋の光を見たような気がしたのです。
 おそらく、マタイに起こったのもこれと似たようなことでしょう。徴税人として生き続けることに、マタイはきっと心のどこかで疑問を感じていたのだろうと思います。しかし、だからといって何をしていいのかもわからない、そんな心の闇を抱えながら日々を過ごしていたのだろうと思います。イエスはマタイのそんな心の闇を鋭く見抜き、マタイに声をかけました。マタイは、イエスの呼びかけの中に一筋の光明を見出し、その光についていったのでしょう。
 光を求めて深い闇の中をさまよっているとき、もし遠くから射す一筋の光明を見つければ、誰しもそれに向かって歩き始めることでしょう。最近のわたしは、日々の生活に慣れて心に闇を感じることもあまりなくなりましたが、逆に光に気づくセンスも鈍ってきているような気がします。いつも自分の進むべき道はこれでいいのかと神に問いかけ、神が示してくださる光の導きに従って歩みたいと思います。
※写真の解説…カトリック神戸中央教会のステンドグラス。阪神淡路大震災で半壊した、旧中山手教会聖堂から移設されたもの。