バイブル・エッセイ(263)十字架を見上げて


十字架を見上げて
 エスはニコデモに言われた。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハネ3:14-18)
 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」とイエスはおっしゃいます。わたしたちを裁くのはイエスではなく、イエスを信じられないわたしたち自身だということでしょう。イエスを信じられない最大の理由は、イエスではなく、自分自身を信じることにあると思います。自分の強さへの信仰、そして弱さへの信仰です。
 強さへの信仰とは、地位や名誉、財産を持っているから自分は強い、価値があると思い込んでしまうことです。そのような人は自信満々で、世間からも高く評価されるでしょうが、しかし心の内側はどうでしょう。自分の強さの土台であるそれらのものが奪われたり、なくなったりすることへの恐れや不安にいつも駆り立てられているかもしれません。絶えず人の顔色をうかがい、財産を守るために心労している。そのようなことであれば、その人は自分で自分を恐れと不安の牢獄に閉じ込めたようなものです。
 もしわたしたちの心がそのような状態なら、十字架につけられたイエスを見上げましょう。エスは何も持っていません。しかし、侮辱され、裏切られ、衣服さえはぎ取られたその貧しさの極みにおいて、イエスは復活の栄光へと挙げられたのです。ですから、何も持たないことを恐れる必要などどこにもありません。信じて、すべてを手放しましょう。
 弱さへの信仰とは、自分は人と比べて劣っているし、何もできない無力な人間だから神の愛に値しない、救われないと思い込んでしまうことです。エスがその人の目の前にいて、あふれるほどの愛でその人を包み込もうとしていても、その人は自分で作り上げた思い込みの牢獄の中に入り込んで出てこようとしません。
 もしわたしたちの心がそのような状態なら、十字架につけられたイエスを見上げましょう。エスは何もできません。しかし、もはや自分では何もできない無力さの極みにおいて、イエスは永遠の救いに到達したのです。ですから、何もできない自分、無力な自分を責める必要などどこにもありません。信じて、すべてを神の力に委ねましょう。
 何よりも大切なのは、自分の強さや弱さではなく救い主、イエス・キリストを信じるということです。どんなときにも十字架をしっかり見上げ、救いへの道を歩み続けましょう。
※写真の解説…兵庫県綾部山梅林にて。