バイブル・エッセイ(276)子は親の鏡


子は親の鏡
 「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。(ヨハネ14:7-11)
 「わたしを見た者は、父を見たのだ」とイエスはおっしゃいます。御子であるイエスは御父である神と完全に一つに結ばれているので、御子を見るのは御父を見るのと同じだということでしょう。何か、「子どもの日」にふさわしい福音であるような気がします。
 「子は親の鏡」という言葉があります。子どもは親の善いところも悪いところも身に着けて、親と似た姿になっていく、だから子を見ることで親を見ることができるということでしょう。親なしで生きていくことができないと知っている小さな子どもにとっては、親から愛されること、親を愛することは死活問題であり、親が思うとおりに振る舞えるようにと懸命に努力します。そうしているうちに、話し方や仕草、性格まで親に似たものになっていくのです。何か困難なことがあれば親の助けを求め、助けが得られなければ親ならどうふるまうだろうと考えて行動するでしょう。もともと遺伝的に似ている部分もありますから、子はまさに親の鏡と言っていいだろうと思います。
 わたしたちもこのような素朴な子どもの愛に学びたいと思います。自分は何も知らない子どもにすぎないと素直に認め、父なる神の助けなしには生きていけないということを自覚することがまず最初でしょう。わたしたちをありのままに受け入れてくださる神の愛がなけば、わたしたちはもし肉体的に生きていたとしても、魂は死んだものとなってしまうのです。神から愛されるかどうかは、わたしたちにとってまさに死活問題だと言っていいでしょう。そのような覚悟でイエスの言葉に耳を傾け、イエスの仕草を注視し続けるなら、やがて話し方や仕草、性格までイエスに似たものとなっていくに違いありません。自分では判断できないようなことは、全て神に助けを求め、イエスならばどうするかと考えてみましょう。もともとわたしたちは「神の似姿」として造られていますから、きっとわたしたちも神を映し出す鏡になることができるに違いありません。
 イエス・キリストは神として御父と一つであると同時に、人間として完全な謙虚さと、信頼、従順のうちに神と一致しました。わたしたちもイエスに倣いたいと思います。子を見た人が子の中に親を見るように、わたしたちと出会うすべての人が、わたしたちの中にイエスの愛、神の愛を見ることができますように。
※写真の解説…教会の生垣で満開を迎えたツツジの花。