バイブル・エッセイ(277)分かち合うための実


分かち合うための実
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
 「わたしを離れては何もできない。わたしにつながっていれば豊かに実を結ぶ」とイエスはおっしゃいます。ですが世間を見渡すと、イエスにまったくつながらず、私生活では悪いこともたくさんしているような人が大きな業績を上げてもてはやされたり、偉くなったり、お金持ちになったりしていることがよくあります。それに比べて、自分は毎週ミサに出てしっかりイエスにつながっているはずなのに、大した実を結んでいない。おかしいじゃないか。そんな風に思う人がいるかもしれません。
 それは勘違いだと思います。大きな業績を上げたり、世間的な地位や名誉、財産を得た人の人生を「実り豊かな人生」ということがありますが、イエスが言う実りはそういうことではないのです。イエスが言っている実とは、人々と分かち合うための実であって、自分のために何かを得ることではありません。自分のために業績や地位、名誉を手に入れた人は、実をつけた人というよりも、枝を伸ばした人と考えるべきでしょう。その人は、どんどんエゴを大きくして伸びていくけれども、実は一つも実らない、そういう枝のようなものです。
 そんな枝を見たら、農夫である神様はどうするでしょうか。全体の調和を乱す、伸び放題の枝を見れば、神様はその枝を「手入れなさる」に違いありません。「手入れする」というのは、ギリシア語原文によれば「刈り込む」ということです。神様はわたしたちが実をつけるようにと、手に入れた業績や名誉、財産を取り去られるでしょう。痛みを伴うことですが、それは本当の実をつけるために必要なことなのです。
 では神様が望まれる本当の実とはいったいなんでしょう。エスとつながることから生まれる実りとは、喜びや優しさ、落ち着き、赦し、誠実さ、そういったものだろうと思います。それらの実は、わたしたちと出会う人が、とって食べることができるものです。あの人の笑顔を見ると、わたしもうれしくなって力が湧いてくる。あの人の優しさに触れると、ささくれ立っていた心が癒される。あの人のそばにいるだけで、波立っていた心が落ち着きを取り戻す。そのようにして分かち合われていくものこそ、本当の実なのです。
 そのような実をつけるためには、喜び、優しさ、落ち着き、赦し、誠実さの源泉であるイエスの愛につながっていることがどうしても必要です。どんな人でも、神の愛を受けずに、ただ人々に実を与え続けることはできません。イエスは、そのような意味で「わたしを離れては何もできない。わたしにつながっていれば豊かに実を結ぶ」と言っておられるのです。
 わたしたちがイエスとつながっているのは、エゴの枝をどんどん伸ばすためではなく、人々と分かち合うための実をつけるためだということをもう一度しっかり思い出したいと思います。出会う人が、わたしたちという枝から愛の実をとって食べることができますように。
※写真の解説…六甲山、高山植物園のツツジ