バイブル・エッセイ(330)最初の奇跡


最初の奇跡
 ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
 イエスガリラヤのカナで行ったこの初めての奇跡を見て、「弟子たちはイエスを信じた」と書かれています。弟子たちは、なぜこの奇跡を見て信じたのでしょう。「水をぶどう酒に変えた。この人はすごい」ということだけではない気がします。
 イエスと召し使いの会話を一部始終、見聞きしていた弟子たちの目に、この出来事はどう映っていたでしょうか。まずイエスは召し使いたちに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と命じました。弟子たちは、きっと不思議に思いながら見ていたことでしょう。次にイエスが言ったのはまったく予想外のことでした。ぶどう酒がなくなりかけて困っている世話役のところに、その水を持って行けというのです。そんなことをすれば、召し使いは世話役に怒られるに違いありません。弟子たちははらはらしながら、どうなることかと見守っていたでしょう。 ところが、弟子たちの目の前で驚くべきことが起こりました。その水を飲んだ世話役は、怒るどころか「これは良いぶどう酒だ」と言ったのです。弟子たちは、召し使いの運んだ水が、途中のどこかでぶどう酒に変わっていたことを知りました。
 この出来事は、弟子たちの心を勇気づけたに違いありません。なぜなら、弟子たちはこの召し使いたちがしたのと似たようなことをしようとしていたからです。弟子たちは、イエスに呼び出されて福音宣教の旅について来ましたが、自分たちに何ができるのか不安を抱いていたことでしょう。漁師や徴税人などとして生きる中で蓄えてきた知恵や知識、経験などは、まったく取るに足りないもののように思えたからです。それを運んで一体何になるのかと、弟子たちは不安に思っていたことでしょう。
 しかしイエスは、召し使いが運んだ取るに足りない水を、人々を酔わせるぶどう酒に変えました。弟子たちは、自分が持っているものをすべてイエスの命じられた通りに運び、人々に差し出すときに何が起こるかを知って力づけられたに違いありません。まったく取るに足りないわたしたちの知恵や知識、経験も、イエスの言葉に従って運び、人々のために差し出すとき、人々の心を喜びで酔わせるぶどう酒に変えられるのです。
 もし召し使いたちがイエスの言葉を聞いて躊躇し、水を運ばなかったらどうなっていたでしょう。水は、何の役にも立たないまま、かめの中で腐ってしまったに違いありません。わたしたちの知恵や知識、経験も「どうせこんなもの」と思って自分の中にためておけば腐っていくでしょう。イエスの言葉を信じ、御言葉のままに人々に差し出しさえすればぶどう酒に変えられる水なのに、本当にもったいないことです。
 弟子たちの視点から読んでみると、この奇跡がイエスの最初の奇跡にふさわしい出来事、福音宣教に携わるすべての人に力を与える奇跡だったことが分かります。イエスの御言葉を信じ、勇気を出してかめの中の水を運び続けましょう。
※写真の解説…北野天満宮の梅。昨年2月に撮影したもの。