バイブル・エッセイ(331)御言葉の実現


御言葉の実現
 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
 さて、イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ1:1-4、4:14-21)
 ルカ福音書につけられた献呈の言葉によって、わたしたちは福音書が書かれた目的をはっきりと知ることができます。福音書は「わたしたちの間で実現した事柄について」、目撃した人々の証言を伝えるために書かれたのです。福音書とは「わたしたちの間で実現した事柄」を記した本だということを覚えておきたいと思います。
 今日読まれたこの箇所は、まさにイエスが実現した事柄についての記述です。イエス聖霊によって隅々まで満たされた声で聖書の言葉を読み上げたとき、人々はイエスの声から、これまでとは確かに違うもの、生きている神の愛と力を感じ取りました。「すべての人の目がイエスに注がれた」のはそのためでしょう。こうして、今まで見たことも聞いたこともない何か、計り知れないほどの神の愛と力が、このとき、この場所で人々の前に実現したのです。
 その人が口を開いただけで、神の約束が実現する。そんなことが確かにあると思います。例えば、一昨年、帰天されたある神父さんの周りではいつもそんなことが起こっていました。告解室で彼と向かい合い、温もりに満ちた優しい声に促されて罪を告白するとき、そして「わたしはあなたの罪をゆるします」と彼がはっきり告げるのを聞くとき、わたしたちはそこに神のゆるしが実現したことを確かに感じ取ることができたのです。そのとき、わたしたちの目の前で神のゆるし、神の御言葉が確かに実現していました。
 すべての人が聖書の言葉を力強く読み上げたり、罪のゆるしを与えたりする使命を与えられているわけではありません。パウロ「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と言っている通り、わたしたちには、それぞれに違う「キリストの体」の部分として神の御言葉をこの地上に実現していく使命が与えられているのです。例えば、ある人には、歌声で神の喜びを地上に実現する使命が与えられるでしょう。心からの喜びに満たされて湧き上がった力強い歌声は、聞く人々の心に確かに神の喜びを実現するものです。あるいは、わたしたちはキリストの手となることもできます。初めて教会に来て歌集のどこを開いたらいいかも分からずとまどっているとき、横からすっとの伸びる助けの手。まごまごしてプリントを落としてしまったときにそれを拾い上げてくれる手。そのような手は、まさに神の温もりの実現だと思います。あるいは、わたしたちはキリストの足となることもできるでしょう。風邪などで教会に来られなかった仲間を教会帰りに訪ね、聖書の言葉や教会報などを運んであげるとき、わたしたちの足は確かに神の慈しみを実現するのです。
 このようにしてわたしたちが、それぞれの仕方でこの地上に神の御言葉を実現していくとき、実はわたしたちの生活そのものが福音書になります。わたしたちは、日々、イエスと共にこの地上に神の御言葉を実現することで、生きている福音書を書き上げていくのです。生きている福音書、それ以上に確かではっきりとした「神の国」の証が他にあるでしょうか。福音の言葉を実現し、わたしたちの生活そのものを福音書の一部にしていくことができるよう、神の助けを心から願い求めたいと思います。
※写真の解説…アンテナに止まって大きな声で朝の歌をうたうスズメ。