バイブル・エッセイ(479)み言葉の大地を歩く


み言葉の大地を歩く
「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」(マルコ13:24-32)
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とイエスは言います。天地はみ言葉の上に立てられたもの。天地が崩れ去ったとき、わたしたちは自分が、実は神のみ言葉の大地の上を歩いていることに気づくでしょう。何が起こったとしても、わたしたちが闇の深淵に呑みこまれることはないのです。
「万物は言葉によって成った」(ヨハネ1:3)と言われている通り、この天地は、そもそもみ言葉によって創られました。み言葉によって創られたものは、み言葉によって支えられています。すべての被造物は、神の愛の中で生まれ、神の愛に支えられていると言ってもいいでしょう。世の終わりがやって来て天地が崩れ去るとき、その中に隠れていた神のみ言葉が姿を現します。天地を満たした神の愛が、わたしたちを包み、支えて下さるのです。ですから、わたしたちは何も心配する必要がないのです。
 当たり前に思っていたものが消え去り、絶望の底に沈みそうになったとき、神の愛がわたしたちを支えてくれる。そんな経験をすることがあります。例えば、病気で寝たきりなり、自分の力では何もできなくなったとき、わたしたちは自分がこれまで神の愛によって支えられていたことに気づくかされます。これまで自分の力で生きてきたように思っていたけれど、すべては神の愛の中にあったと気づかされるのです。神の愛は、立つことさえ出来ないわたしたちをもやさしく包み込み、守ってくれる。そう気づいたとき、わたしたちは失意と落胆の底に希望を見つけ出します。天地が崩れ去ったとき、初めて私たちは自分の生活が神の愛の上に、神の言葉の上に立っていることを知るのです。
 自分が神の愛の大地の上に立っているということを、普段から意識するようにしたいと思います。わたしたちは、いつでも神の愛の大地を歩いているのです。地面を踏みしめるとき、自分が立っている場所が神によって創られた大地であり、神のみ言葉によって支えられた大地であることを意識しましょう。神の愛がわたしたちの一歩一歩を支えている。そう思うと、足の裏で神の愛の温もりを感じることができるはずです。一歩一歩のあゆみを通して神の愛を感じ、神とつながりながら歩くとき、歩くことは祈りになります。木や草花も、神のみ言葉によって創られています。その中には、確かに神のみ言葉、神の愛が宿っているのです。木や草花の美しさに目を留めるとき、ただそれだけを見るのではなく、美しさの向こう側から語りかけておられる神のみ言葉に耳を傾けたいと思います。そうすれば、草花に目を留めることも祈りに変えられてゆくでしょう。被造物の中に宿る神のみ言葉に耳を傾けるとき、わたしたちの日常のすべてが祈りに変えられてゆきます。祈りの中で、神の愛のぬくもりを感じながら生きることができるのです。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」という言葉を、しっかりと胸に刻みたいと思います。わたしたちは、目に見えない神のみ言葉、神の愛の中に生きているのです。何も心配する必要はありません。神の愛に満たされながら、み言葉の大地を歩き続けましょう。