バイブル・エッセイ(986)神と共に立つ

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神と共に立つ

 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:27-35)

 イエスの言葉を聞いて驚き、いさめようとするペトロに向かって、イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言いました。「人から悪く思われたら困る」というペトロの人間的な思いにつけ込んで、サタンがペトロに入りこんだ。そんなことを言わせているのは、サタンに違いないということでしょう。人間からどう思われようと、神の御旨を行うことが何より大切だ。イエスは、そう確信していたのです。

 神の御旨よりも先に、人間の思いを考えてしまうということは、わたしたちにもよくあるのではないでしょうか。こんなことをして、人から悪口を言われたらどうしようか。悪口を言われないまでも、冷たく無視されてしまったらどうしよう。こんなことをしても、意味がないのではないだろうか。そんな風に、人間からの反応を基準にして考え、何かを始めるのをあきらめてしまう。わたし自身、そんなことがよく起こりがちです。

 たとえば、コロナ禍でみんなが教会に来られない。そんなとき、どうしたらみんなに神さまの愛を届けられるだろうかと考えて、「そうだ、手紙を書こう」と思ったとしましょう。最初はとてもよい考えだと思うのですが、しだいに、「でも、そんなことをしても何人にも書けない。無駄じゃないだろうか」とか、「急に手紙が来て、相手がどう思うだろうか」とか、そんな気持ちが出てきて、やる気がなくなってしまうのです。これがまさに、「人間のことを思っている」状態でしょう。

 そんなときわたしは、神の御旨がなんだろうかと考え直すようにしています。「いまコロナ禍の中にあって、一人で家に閉じこもっている人。何もすることがなく、生きる気力を失いかけている人、そんな人たちのために、神さまは今、わたしを使って何をしたいのだろうか」と考え直し、自分に問いかけてみるのです。すると、「どんな小さなことでも、苦しんでいる人たちのために、苦しんでいる人たちを何とか助けたいと願う神さまのために、自分にできることから始めよう」という気持ちが湧き上がって来るのです。

 イザヤは、「誰がわたしと共に争ってくれるのか。われわれは共に立とう」と語っていますが、神さまの御旨のままに生きようと思うとき、わたしたちの心に聖霊が宿り、わたしたちと共に戦ってくれる。そんな気がします。実際に始めてみると、「そうだ、手紙だけじゃなく、きれいな写真も一緒に送ってあげよう」とか、「あの人にも声をかけて手伝ってもらおう」とか、色々な思いが生まれ、どんどん活動は広がり始めます。これはまさに、神さまが共にいて、一緒に戦ってくれるしるしでしょう。

 長引くコロナ禍の中にあっても、神さまのために、困っている人たちのために、わたしたちにできることはいろいろあるはずです。人間の思いにとらわれることなく、神さまの御旨を行うことができるように。いつも、神さまと共に立ち、共に進んでゆくことができるように祈りましょう。

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こころの道しるべ(82)誰かを助けるための力

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誰かを助けるための力

自分のためにやろうとすると
うまく行かないことでも、
誰かのためにやろうとすると
うまく行くことがあります。
人間には、自分のためではなく、
誰かを助けるためだけに
与えられた力があるのです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(985)ぬくもりの力

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ぬくもりの力

 エスティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」(マルコ7:31-37)

 耳が聞こえず、話すこともできない人をイエスが癒す場面が読まれました。他の癒しの奇跡の場面では、イエスが声をかけるか手を置くかすると癒やされることが多いのですが、この場面では、イエスは相手の耳に指を入れ、舌に触り、さらに「エッファタ」(開け)と言ったと記されています。なぜ、イエスはここまでしたのでしょう。

 HIVの治療に当たっているお医者さんから、こんな話を聴いたことがあります。まだ治療のための薬も開発されておらず、患者さんにしてあげられることがあまりない時代のことです。そのお医者さんは、穏やかな笑みを浮かべながら、「診察してもあまり助けにはならないと思うこともあるが、脈をとって上げるだけでも患者さんはにっこりうれしそうな顔をしてくれる。それだけでも、クリニックにいる意味があると思っています」と言っておられました。患者さんたちにとっては、誰かに触ってもらえる、人のぬくもりを感じられるということだけでも癒しになるということでしょう。人間のぬくもりには、さびしさや心の傷を癒す力があるのです。

 イエスが、耳が聞こえず、話すこともできないこの人の癒しのためにこれほどのことをしたのは、この人が、耳が聞こえないこと、話せないことによってこれまで辛い思いをし、心にも傷を負っていることに気づいたから、この人がぬくもりによる癒しを必要としていると感じたからだろうとわたしは思います。人々の中から連れ出し、耳に指を入れ、舌につばを塗り、さらに声をかける。この人はきっと、イエスのこの一連の行動に驚き、「わたしのためにここまでしてくれるなんて」と感じたことでしょう。これらの行動にこめられたイエスの愛、触れ合うことで伝えられた愛のぬくもりが、この人の心の傷を癒し、体の障害を癒す奇跡を生み出した。わたしはそんな風に思っています。

 昨年の「世界病者の日」のメッセージの中でフランシスコ教皇は、「イエスは、魔法によって癒すのではなく、出会いによって、人と人との関わりによって癒すのです」とおっしゃいました。イエスの起こす癒しの奇跡は、呪文を唱えれば自動的に治る魔法のようなものではなく、人と人との間に生まれる愛が引き起こす奇跡だということでしょう。声のぬくもり、まなざしのぬくもり、手のぬくもり、出会いの中で生まれるそのような人間のぬくもりを通して、神さまは奇跡を行われるということです。

 ふれあいを伴わない祈りによっても、癒しは起こるでしょう。しかし、その場合でも、奇跡を引き起こすのは、祈りに込められた愛であるに違いありません。人と人との間に通い合う、ささやかな愛のぬくもりの中で奇跡が生まれる。そう信じて、苦しんでいる人たち、助けを求めている人たちのために祈り、その人たちのもとに出かけてゆくことができるよう心をあわせて願いましょう。

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こころの道しるべ(81)特別な力

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特別な力

相手の欠点を見つけ出すのが得意でも、
それは何の自慢にもなりません。
人間が欠点だらけなのは
当たり前だからです。
どれだけ欠点だらけの人の中にも、
必ずいいところを
見つけ出すことができる力。
それこそ、讃えられるべき特別な力です。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(984)愛に立ち返る

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愛に立ち返る

 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7:1-8、14-15、21-23)

 律法に背いていると言って弟子を非難する人たちを、イエスは「偽善者」と呼び、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」とたしなめました。彼らの行動は、一見、神の御旨に従っているようだけれど、その心は神から遠く離れているというのです。律法をまじめに実践しているのに、心は神から離れているとは、いったいどういうことでしょう。

 そもそも、律法が何のために定められたか考える必要があると思います。律法の究極の目的が、神を愛すること、そして神の愛を実践することにあるのは間違いがないでしょう。エスが言う「神の掟」とは愛の掟であり、ヤコブが「御言葉を行う人になりなさい」と言うときの「御言葉」とは、神の愛に他ならないのです。このいちばん大切な目的が忘れられるとき、律法はただの形だけのルール、「人間の言い伝え」になってしまいます。神を愛するため、隣人を愛するためではなく、自分自身を人の前でよく見せるためだけの行動、いわゆる「偽善」になってしまうのです。

 これは、本当によくあることだと思います。たとえば、最近わたしたちは、どこに行っても手指の消毒をします。これは本来、自分自身を、そして自分が愛する家族や身近な人達をウイルスから守りたいという愛から生まれる行動のはずです。ですが、慣れてくると、その本来の目的は忘れられ、形だけチャッチャッとやる。見ている人から非難されないために、「あの人は意識が高い」と人から思われるためにやるということになりがちです。そのようなことだと、消毒液はしだいに片隅に追いやられ、やがて誰もまじめに実践しなくなるに違いありません。

 社会のルールにしても、神さまが定めた掟にしても、その根底にあるのは、互いを思いやる愛だとわたしは思います。形だけ残って、愛が片隅に追いやられるとき、その形は自分をよく見せるためだけの偽善となり、かえって社会を住みにくい場所にするし、教会を居心地の悪い場所にしてしまうのです。

 イエスは、手を洗うというルールを例にあげて、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚す」と指摘します。どんなによく手をあらっても、そのことによって心の中に傲慢や悪意、怒りなどが生まれてくるなら、かえってその人は汚れてしまうというのです。汚れとは、神の愛を踏みにじり、自分さえよければいい、自分の思ったとおりにすべてを動かしたいと願う人間のエゴイズムのことだと考えたらよいでしょう。偽善に陥るとき、わたしたちはルールを守ることによって、かえって神さまから遠ざかってしまうのです。

 ルールを守ることによって神さまのことを思い出し、心を神への愛で満たすとき、初めてわたしたちは清らかなものとなります。ルールを守らない人を見下すなら、かえってわたしたちの心は汚れてしまうのです。偽善に陥ることがないよう、いつも原点である神さまへの愛、隣人への愛に立ち返って考えられるよう祈りましょう。

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こころの道しるべ(80)物語の意味

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物語の意味

物語は、
途中で終わってしまえば
意味がありません。
最後まで書き上げたときに
意味が生まれるのです。
わたしたちの人生もそれと同じ。
意味があるから
生きるのではありません。
最後まで生き抜くからこそ
意味が生まれるのです。

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バイブル・エッセイ(983)命の息

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命の息

 弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:60-69)

「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」とイエスは言います。イエスの言葉や行いから霊を受けとった者、イエスが「永遠の命の言葉」を持っていると気づいた者だけがイエスのもとに残るということでしょう。では、霊とはいったいなんでしょう。わたしたち自身は、イエスの言葉から霊を受け取っているでしょうか。

 創世記の中に、神がアダムの鼻に「命の息」を吹き込んだときアダムは「生きる者となった」と記されています。アダムを生きる者としたこの「命の息」こそ、神の霊だと考えてよいでしょう。土塊にすぎなかった人間に、「命の息」が流れ込んだとき、人間は生きる者となったのです。わたしは、この「命の息」は神さまの愛だと思っています。絶望の闇の中で生きる力を蘇らせてくれるもの、もう一度立ち上がるための力を与えてくれるもの、わたしたちの全身を満たして、日々の歩みを支えてくれるもの、それは神さまの愛以外にないからです。

 イエスの言葉は、まさにこの息だったと考えられます。イエスの口から出る言葉は、人間に命を吹き込む「命の息」だったのです。言葉だけではありません。イエスの行いや人柄、イエスの存在そのものが、神の口から出た「命の息」だったのです。イエスが人々にパンを割いて与えたときにも、イエスを通して人々に命の風が吹きました。イエスから受け取ったパンを感謝して食べた人たち、「こんなわたしにも、神さまはこれほど豊かにパンを与えてくださる」と喜びの涙をこぼしてパンを味わった人たちは、その風をしっかり受け止め、神さまの愛で心を満たされて、生きる力を、命を与えられたのです。

 しかし、イエスの周りに集まった人たちの中には、そのことに気づかず、「命の息」を受け取れない人たちもいました。単に、パンを食べて腹を満たすためだけに集まった人たち、自分の肉体的な欲求を満たすためにイエスを利用しようとして集まった人たちもたくさんいたのです。そのような人たちは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない」というイエスの言葉を理解できず、イエスのもとを去っていきました。彼らは、イエスご自身こそがパンであること。イエスからあふれ出す神の愛こそが、わたしたちを生かす本当の力であることに気づいていなかったのです。

 さて、わたしたちはどうでしょうか。神から恵みを頂いたときに、どのような受け取り方をしているかを見れば、そのことがわかると思います。たとえば食前の祈りをするとき、わたしたちは、食べ物でお腹がいっぱいになることだけに感謝しているでしょうか、それとも神さまがわたしたちを愛し、豊かな恵みで満たしてくださることにも感謝しているでしょうか。人との出会いに恵まれて楽しい時間を過ごせたとき、楽しかったことだけを感謝しているでしょうか、それとも、そのような出会いを与えてくださった神さまの愛にも感謝しているでしょうか。ペトロと共に、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と言えるよう、日々の生活の中で、イエスからあふれ出す愛の息吹をしっかり受け止められるように祈りましょう。

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