バイブル・エッセイ(985)ぬくもりの力

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ぬくもりの力

 エスティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」(マルコ7:31-37)

 耳が聞こえず、話すこともできない人をイエスが癒す場面が読まれました。他の癒しの奇跡の場面では、イエスが声をかけるか手を置くかすると癒やされることが多いのですが、この場面では、イエスは相手の耳に指を入れ、舌に触り、さらに「エッファタ」(開け)と言ったと記されています。なぜ、イエスはここまでしたのでしょう。

 HIVの治療に当たっているお医者さんから、こんな話を聴いたことがあります。まだ治療のための薬も開発されておらず、患者さんにしてあげられることがあまりない時代のことです。そのお医者さんは、穏やかな笑みを浮かべながら、「診察してもあまり助けにはならないと思うこともあるが、脈をとって上げるだけでも患者さんはにっこりうれしそうな顔をしてくれる。それだけでも、クリニックにいる意味があると思っています」と言っておられました。患者さんたちにとっては、誰かに触ってもらえる、人のぬくもりを感じられるということだけでも癒しになるということでしょう。人間のぬくもりには、さびしさや心の傷を癒す力があるのです。

 イエスが、耳が聞こえず、話すこともできないこの人の癒しのためにこれほどのことをしたのは、この人が、耳が聞こえないこと、話せないことによってこれまで辛い思いをし、心にも傷を負っていることに気づいたから、この人がぬくもりによる癒しを必要としていると感じたからだろうとわたしは思います。人々の中から連れ出し、耳に指を入れ、舌につばを塗り、さらに声をかける。この人はきっと、イエスのこの一連の行動に驚き、「わたしのためにここまでしてくれるなんて」と感じたことでしょう。これらの行動にこめられたイエスの愛、触れ合うことで伝えられた愛のぬくもりが、この人の心の傷を癒し、体の障害を癒す奇跡を生み出した。わたしはそんな風に思っています。

 昨年の「世界病者の日」のメッセージの中でフランシスコ教皇は、「イエスは、魔法によって癒すのではなく、出会いによって、人と人との関わりによって癒すのです」とおっしゃいました。イエスの起こす癒しの奇跡は、呪文を唱えれば自動的に治る魔法のようなものではなく、人と人との間に生まれる愛が引き起こす奇跡だということでしょう。声のぬくもり、まなざしのぬくもり、手のぬくもり、出会いの中で生まれるそのような人間のぬくもりを通して、神さまは奇跡を行われるということです。

 ふれあいを伴わない祈りによっても、癒しは起こるでしょう。しかし、その場合でも、奇跡を引き起こすのは、祈りに込められた愛であるに違いありません。人と人との間に通い合う、ささやかな愛のぬくもりの中で奇跡が生まれる。そう信じて、苦しんでいる人たち、助けを求めている人たちのために祈り、その人たちのもとに出かけてゆくことができるよう心をあわせて願いましょう。

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