こころの道しるべ(123)一段上の土俵

一段上の土俵

誰かから悪口を言われたとき、
むきになって言い返せば、
相手と同じ土俵に乗ることになります。
「なぜ、こんなことを言うのだろう」
「どうしたら、
この人とうまくやってゆけるだろう」
と考えることで、
もう一段上の土俵に上がりましょう。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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【新刊】『何を信じて生きるのか』刊行記念サイン会

新刊『何を信じて生きるのか』刊行記念サイン会

新刊『何を信じて生きるのか』(7月23日発売)の刊行を記念して8月1日、2日の両日、銀座・教文館でサイン会を行います。教文館キリスト教書部に電話かメールでお申し込みください。以前に買った本のサインも受けつけます。参加者が少ない場合には、各回のはじめにミニ講演会をする予定です。平日で申し訳ありませんが、どうぞお気軽にご参加ください。みなさんとお会いできるのを楽しみにしています。

◆詳細 bit.ly/3bNYEXz

 

バイブル・エッセイ(1034)宣教の旅に必要なもの

宣教の旅に必要なもの

 主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。(ルカ10:1-12) 

 弟子を派遣するにあたってイエスは、それは「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言いながら、弟子たちに「財布も袋も履物も持って行くな」と命じます。危険なところに送り込むのであれば「十分な備えをして行け」というのが普通だと思いますが、イエスはまったく逆のことを言っているのです。なぜでしょうか。それは、余計な物を持っていては福音宣教ができないから。福音宣教に必要なのは、ただ、神への愛に燃え上がる心、神を信じてすべてを委ねる心だけだからだと思います。

 パウロは「わたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(ガラ6:14)と言います。イエスの十字架において現された神の愛、それ以外に誇るものなど何もないということでしょう。わたしたちがもし自分を誇るなら、イエスによって十字架上で生きられた神の愛が、自分自身の心の中にも生きている。そのこと以外にないのです。

 イエスは、十字架上で、神への愛のゆえに自分のすべてを神に差し出しました。もしわたしたちがたくさんの物にしがみついていれば、十字架上の愛を生きることはできません。神にすべてを差し出し、すべてを委ねたときにだけ、わたしたちはイエスの愛を生きることができるのです。宣教に旅立つ弟子たちに、イエスが「何も持って行くな」と命じたのは、そのためだと思います。

 神への愛ゆえに、苦しんでいる人々をなんとか一人でも救いたいと願う神への愛のゆえに、自分のすべてを差し出す。神から委ねられた人々への愛に燃え、あらゆる危険を乗り越えて旅を続ける。それが、福音宣教に最も必要なことなのでしょう。わたしたちの心に神への愛が燃え上がっているなら、その愛の火は自然と周りの人たちに燃え移ります。もし燃えていないなら、口先でどんなにうまく話したところで、神への愛を人々の心に燃え上がらせることはできないのです。

 自分を誇るという場合に、自分が持っている物を誇る場合と、自分の生き方そのものに誇りを持つ場合があります。自分はこんな高価な物を持っている、こんな大きな家に住んでいる、こんなすごい人たちとつながりがあるというように、自分が持っているものを誇る場合、実際に価値があるのは持っている人ではなく高価な物や家、友人たちです。しかし、自分は神のためにすべてを捧げ尽くした。自分のすべてをかけて神を愛し、人々を愛しているなら、価値があるのはまぎれもなくその人です。神のためにすべて差し出し、何も持たないことによってのみ、わたしたちは自分を誇り、人々に神の愛を伝えることができる。そう言ってよいでしよう。

 すべてを捧げきり、何一つ持たないということは、現実の生活では難しいでしょう。しかし、不完全であったとしても、自分なりにできる限りのものを差し出すなら、そのときわたしたちの心にはキリストへの愛の炎が燃え上がります。聖人たちのような大きな炎でなかったとしても、その炎には、周りの人々の心を燃え上がらせる力が確かにあるでしょう。ただキリストへの愛、キリストのためにすべてを差し出す愛だけを持って福音宣教に出かけていけるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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【新刊】『みんなのやさしいおかあさん マザー・テレサ』(至光社)

みんなたいせつなかみさまのこども。ほうっておくことはできないのです。

つるみゆきさんが絵を担当し、片柳神父が文を担当した絵本『みんなのやさしいおあかさん マザー・テレサ』(至光社刊)が8月5日発売されることになりました。「苦しんでいる人がいれば、放っておくことはできない」というシンプルな愛を、生涯をかけて生き抜いたマザー・テレサ。その生涯を、子どもにもわかりやすく描いています。ただいまAmazonや楽天ブックスでも予約受付中です。

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こころの道しるべ(122)一日五分の祈り

一日五分の祈り

一日のうち五分でも祈るなら、
残り二十三時間五十五分の質が
まったく変わります。
悲しみを喜びに、絶望を希望に、
不満を感謝に、
心配を信頼に変えるもの、
それが祈りなのです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1033)イエスと同じ愛を生きる

イエスと同じ愛を生きる

 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。(ルカ9:51-62)

 イエスに従うと決心しながら「まず家族にいとまごいに行かせてください」と言う人に、イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と語りかけました。ちょっと厳しすぎるような気もしますが、イエスが言いたかったのはきっと、「わたしに従うと決めたなら、わたしのそばを決して離れてはいけない」ということでしょう。人間の心は不確かで、ほんのわずかでも離れれば、せっかくの決心が台無しになってしまうかもしれない。イエスは、そのことがよく分かっていたのです。

 イエスの言葉は、「しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」というパウロの言葉と深く響き合っているように思います。人間の中には、イエスに従って愛に身を捧げたいと願う霊の思いと、自分の思った通りに生きて欲望を満たしたいと願う肉の思いがせめぎあっており、せっかくイエスに従う決心をしても、簡単に肉の思いに引き戻されてしまう。イエスのもとを離れれば、たちまち欲望の鎖にしばられて奴隷に戻ってしまうほど弱い存在だということを、パウロは身に沁みてよく知っていたのです。

 もし「わたしはイエスに生涯従います」と一度固く決心すれば、もう二度と誘惑にあうことも、罪に逆戻りすることもないということなら、どんなによかったかと思います。しかし、人間の心はそのようにはできていません。ちょっとでも油断すれば、誘惑に負けてイエスの教えを忘れ、罪を犯してしまうほど弱い存在なのです。しかし、それは、神が人間を見捨てたということではありません。イエスから離れれば誘惑にあい、罪を犯してしまうということは、逆に言えば、イエスのそばにいる限り、どんな誘惑が来ても恐れる必要はない。イエスの愛にとどまり続ける限り、どんな悪もわたしたちに手を出すことはできないということだからです。

 ここにわたしたちの救いがあります。イエスの愛にとどまり、貧しい人々、社会の片隅に追いやられて助けを待ち望んでいる人々のもとに福音を届けたいという情熱に燃えている限り、わたしたちは肉の思いに引き戻され、罪に陥ることはないのです。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」とイエスは言いますが、それでも「福音宣教のためならば、苦しんでいる人々のもとに神の愛とどけるためならば、何の問題もありません。あなたの後にどこまでもついて行きます」と言える信仰を持っているなら、どんな誘惑もわたしたちを罪の奴隷に引き戻すことはできないのです。

 イエスのそばにいるとは、イエスと同じ愛に燃え、福音宣教の道を歩むということに他なりません。「イエスはいま、誰に福音を伝えたいだろうか。誰のもとに愛を運ぼうとしておられるのか」と問い、イエスと同じ愛を生きることができるように。イエスの後に従い、「神の国」へと続く道を共に歩み続けることができるように、聖霊の助けを願って祈りましょう。

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【新刊】『何を信じて生きるのか』(PHP研究所)

人生丸めて捨ててしまいたくなったとき、SNSのタイムラインから流れてきたツイートは...。

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