バイブル・エッセイ(1034)宣教の旅に必要なもの

宣教の旅に必要なもの

 主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。(ルカ10:1-12) 

 弟子を派遣するにあたってイエスは、それは「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言いながら、弟子たちに「財布も袋も履物も持って行くな」と命じます。危険なところに送り込むのであれば「十分な備えをして行け」というのが普通だと思いますが、イエスはまったく逆のことを言っているのです。なぜでしょうか。それは、余計な物を持っていては福音宣教ができないから。福音宣教に必要なのは、ただ、神への愛に燃え上がる心、神を信じてすべてを委ねる心だけだからだと思います。

 パウロは「わたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(ガラ6:14)と言います。イエスの十字架において現された神の愛、それ以外に誇るものなど何もないということでしょう。わたしたちがもし自分を誇るなら、イエスによって十字架上で生きられた神の愛が、自分自身の心の中にも生きている。そのこと以外にないのです。

 イエスは、十字架上で、神への愛のゆえに自分のすべてを神に差し出しました。もしわたしたちがたくさんの物にしがみついていれば、十字架上の愛を生きることはできません。神にすべてを差し出し、すべてを委ねたときにだけ、わたしたちはイエスの愛を生きることができるのです。宣教に旅立つ弟子たちに、イエスが「何も持って行くな」と命じたのは、そのためだと思います。

 神への愛ゆえに、苦しんでいる人々をなんとか一人でも救いたいと願う神への愛のゆえに、自分のすべてを差し出す。神から委ねられた人々への愛に燃え、あらゆる危険を乗り越えて旅を続ける。それが、福音宣教に最も必要なことなのでしょう。わたしたちの心に神への愛が燃え上がっているなら、その愛の火は自然と周りの人たちに燃え移ります。もし燃えていないなら、口先でどんなにうまく話したところで、神への愛を人々の心に燃え上がらせることはできないのです。

 自分を誇るという場合に、自分が持っている物を誇る場合と、自分の生き方そのものに誇りを持つ場合があります。自分はこんな高価な物を持っている、こんな大きな家に住んでいる、こんなすごい人たちとつながりがあるというように、自分が持っているものを誇る場合、実際に価値があるのは持っている人ではなく高価な物や家、友人たちです。しかし、自分は神のためにすべてを捧げ尽くした。自分のすべてをかけて神を愛し、人々を愛しているなら、価値があるのはまぎれもなくその人です。神のためにすべて差し出し、何も持たないことによってのみ、わたしたちは自分を誇り、人々に神の愛を伝えることができる。そう言ってよいでしよう。

 すべてを捧げきり、何一つ持たないということは、現実の生活では難しいでしょう。しかし、不完全であったとしても、自分なりにできる限りのものを差し出すなら、そのときわたしたちの心にはキリストへの愛の炎が燃え上がります。聖人たちのような大きな炎でなかったとしても、その炎には、周りの人々の心を燃え上がらせる力が確かにあるでしょう。ただキリストへの愛、キリストのためにすべてを差し出す愛だけを持って福音宣教に出かけていけるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

www.amazon.co.jp

books.rakuten.co.jp