バイブル・エッセイ(1041)委ねる者の幸い

委ねる者の幸い

 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。(ルカ1:39-56)

 マリアの姿を見たエリサベトは、聖霊に満たされて、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と声高らかに言いました。主である神を信頼し、神にすべてを差し出した人はなんと幸せなのか。エリサベトは、マリアと出会ってそのことをはっきり感じたのだと思います。

 神を信じ、神にすべてを委ねた人の幸い。それを、マリア自身は「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」と表現しています。こんなに弱く、小さなわたしを通して、神の偉大な業が行われた。それこそが自分の幸せだというのです。マリアが言っているのは、神が、自分のような者をキリストの母として選んでくださったということでしょう。自分が生んだ子どもによって、この世界に救いがもたらされるとするなら、それ以上の幸せはありません。それこそが、神を信じ、神にすべてを委ねた聖母マリアの幸せだったのです。

 この幸せは、マリアだけでなく、同じように神を信じ、神に自分を委ねて生きるすべての人に与えられる幸せです。たとえば、コロナ禍や戦争の脅威、気候変動などによって翻弄される現代社会にあっても、神にすべてを委ねて生きる人はまったく動揺することがありません。「何が起こっても、神さまが一番よいようにしてくださる。自分は毎日、神から与えられた使命、互いに愛し合うという使命を果たして生きるだけだ」と確信し、いつも笑顔で、周りの人たちにやさしい言葉をかけながら幸せに生きられるのです。

 時代の波に翻弄される、弱くて小さな人間が、どんなときでも喜びと希望に満ちた笑顔を浮かべ、周りの人をいたわりながら生きられる。これはまさに、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさった」からだと言ってよいでしょう。神を信頼し、神にすべてを委ねて生きるなら、何があっても、神さまがすべてをよくしてくださるから大丈夫と信じて、一日一日を前向きに生きるなら、わたしたちもマリアと同じ幸せ、エリサベトが讃えた「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた人」の幸せを味わうことができるのです。

 何か大きなことをする必要はありません。どんなに厳しい困難に直面しても、恐れや不安に呑み込まれず、心に希望を持ち続けられるなら、それは本当に偉大なことです。自分自身が困難に直面しているにもかかわらず、隣人をいたわる心を持ち続けられるなら、それは本当に偉大なことです。そのような一つひとつの小さなことこそ、神がなさる「偉大なこと」であり、そのようなことを通してこの世界に救いが実現してゆくのです。

 聖母マリアは、幼子イエスを生むことによって幸いな者となりました。わたしたちは、日々の生活の中で、小さなやさしさやいたわり、おもいやりを生むことによって幸いな者になることができます。神を信じ、神にすべてをゆだねて日々を生きられるよう、そうすることで「神の国」の幸いを生きられるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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バイブル・エッセイ(1040)分裂を越えて

分裂を越えて

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(ルカ12:49-53)

 キリスト教は平和を願う宗教のはずですが、今日の福音の中でイエスは「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と言っています。「互いに愛し合いなさい」といういつもの教えと、まったく逆のような話です。いったい、イエスは何を言い出したのでしょう。

 イエスはきっと、この言葉によって、平和を実現するのはそんなに簡単ではない。きれい事だけでは済まないということを伝えたかったのだろうと思います。現に、イエスの教えが伝えられたとき、家族のあいだには分裂が起こりました。妻がイエスの教えを信じたが、夫はそれを受け入れない。親が信じたが、子どもは信仰になど関心がない。ときには、「何でそんなもの信じるんだ」とか、「なぜあなたはわかってくれないの」などと喧嘩にさえなる。現代でもよくあるそのような分裂が、イエスが生きていた頃からもうあったはずなのです。

 しかし、それはイエスが平和を破壊するためにやって来たというわけではありません。分裂が生じ、家族のあいだに対立が生まれるということは、平和に向かう健全なプロセスの一部だと考えられるからです。新しい考え方、世間の一般的なものとは違う考え方が入って来たとき、まずは分裂が生まれます。新しい考え方を受け入れられる人と、受け入れられない人が現れ、その人たちの間に分裂が起こるのです。ある考え方を誰かに強制することができない以上、それはある意味で当然のことです。

 次に、両者のあいだでの話し合いが始まります。お互いに、なぜその新しい考え方を受け入れるのか、受け入れないのか、忌憚のない話し合いを行う中で、どちらかが正しく、どちらかが間違っていることがはっきりすれば、それで分裂は解消するでしょう。話し合いを通して互いの絆はより強められ、家族の平和はさらに安定したものになるに違いありません。

 どんなに話し合っても、話がかみ合わない場合もあるでしょう。しかし、あきらめる必要はありません。どんなに意見が合わなかったとしても、「愛する家族が、この信仰をこんなにも大切にしている」ということが相手に伝われば、「この信仰は気に入らないが、家族がそれを大切にしているということだけは尊重しよう」という態度が生まれてくる可能性があるからです。互いへの愛のために、あらゆる違いを越えて互いの思いを尊重するという態度が家族の中に生まれれば、その家族の平和は盤石といってもよいでしょう。

 イエスがやって来て愛の教えを説いたから、すぐに世界が平和になったというほど、世の中は単純ではありません。「分裂をもたらすために来た」という言葉で、イエスはその現実を語っておられたのです。ですから、分裂が起こっても恐れる必要はありません。むしろ、それはイエスのもたらす平和の第一歩なのです。忍耐強い話し合いと愛によって分裂を乗り越え、真の平和を実現していくことができるよう祈りましょう。

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こころの道しるべ(128)神さまの勝ち

神さまの勝ち

誰かとけんかをしたときは、
「自分が勝つか、相手が勝つか」
と考えず、
「悪魔が勝つか、神さまが勝つか」
と考えましょう。
憎しみに負ければ悪魔の勝ち、
愛が憎しみを打ち破れば
神さまの勝ちです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1039)愛に目を覚ます

愛に目を覚ます

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(ルカ12:35-40)

「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と、イエスは弟子たちに言いました。「目を覚ましている」というのは、単に起きているということではなく、いつ主人が帰ってきてもいいように、自分の生活をきちんと整えなさい。主人に命じられたことを、忠実に果たしなさいということでしょう。主人である神さまの信頼に応え、いつも神のみ旨のままに生きること。それが、僕であるわたしたちの使命なのです。

 しかし、ときどきわたしたちの生活は乱れてしまうことがあります。それは、たとえば、何か大きな試練がやってきたときです。自分はこんなに頑張っているのに、誰も認めてくれない。願ったような結果が出ない。そんなときわたしたちはつい、人間も神も信頼できなくなり、「もうやっていられない。どうせわたしなんか」と思って自暴自棄になってしまうのです。自分が神の子であり、神から大切な使命を与えられていることを忘れるといってもよいでしょう。暴飲暴食をしたり、無駄な買い物をしたり、生活のリズムが不規則になったりするのは、そのようなときです。

 「どうせわたしなんか」ということは、つまり、「わたしは人間からも、神さまからも見捨てられた。誰からも愛されていないので、どうなっても構わない」ということだといってよいでしょう。生活が乱れるとき、わたしたちは、人間への信頼、神への信頼を失っているのです。そうだとすれば、神のみ旨のままに生活を整えるために何より必要なのは、どんなときでも神への信頼を失わないことだといってよいでしょう。神を信頼し、神の被造物である人間を信頼するとき、わたしたちは「こんなことでは、神さまの信頼を裏切ることになる。自分を信頼してくれているみんなの信頼を裏切ることになる。生活を改めよう」と思って、自分の生活を整えられるようになるのです。

 何がよいことで、何が悪いことなのかを幼稚園の子どもたちに教えるとき、わたしは、「こんなことをしたら、神さまは喜ぶかな、それとも悲しむかな」と子どもたちに尋ねます。すると、悪いことをしている場合には、「悲しむ」という答えが返ってきます。続けて「神さまを悲しませるようなことをしてもいいかな」と尋ねると、「いけない」という答えが返ってきます。子どもたちへの質問は、「お母さんは喜ぶかな」「○○くんは喜ぶかな」と言い換えることもできます。神さまがいつも自分のことを見守っていてくれる、お母さんや友だちが、いつも自分を信頼してくれている。そのことを思い出すとき、何をすればよいのか、何をしてはいけないのかということは、自然と分かるのです。

 「目を覚ましている」とは、自分が神から愛されていること、家族や友人、周りの人たちから愛されていることを忘れないことだといってもよいでしょう。神の愛、人々の愛に「目を覚ましている」限り、わたしたちは、自分の身を律し、神のため、人々のために正しい行いをすることができるのです。どんなときでも、神を悲しませるようなことをせず、ただ神を喜ばせることだけをして生きられるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(127)利益にならないこと

利益にならないこと

自分の利益にならないことを、
「無駄なことだ」と切り捨ててゆくと、
最後には人生そのものが
無駄なことのように思えてきます。
人生の意味は、自分の利益にならないこと、
自分以外の誰かのために
尽くすことの中にこそあるのです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1038)本当に大切なもの

本当に大切なもの

 そのとき、群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:13-21)

 親の遺産を自分も相続できるようにしてくれと頼む人に、イエスは「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」と言いました。財産を手に入れても、自分の命を失ったらどんな意味があるのか。人生には、財産よりもっと大切なものがある。イエスは、この人にそう教えたかったのでしょう。

 どんなに財産を手に入れても、死んでしまえば何の役にも立たない。そのことを、コヘレトは、「なんという空しさ、すべては空しい」と言って嘆きます。人間は、財産や名誉、権力などを手に入れようとして一生努力し、それを守るために日夜労苦する。しかし、人生の最後には、死によってすべてを奪われる。そうだとしたら、人間の人生など、いったいどんな意味があるのか。コヘレトは、そのように感じたのです。

 今から3000年前に生きたコヘレト、すなわちソロモンの言葉は、現代を生きるわたしたちの心にも深く響きます。たとえば、わたしは今、新しい本を出してもらったばかりなので、「この本が世間から受け入れてもらえるだろうか」という不安を抱えています。世間からの評価、もっと言えば名誉に心を奪われた状態と言ってよいでしょう。ある本は売れ、ある本は消えていく。そのたびに一喜一憂しているうちに、やがてわたしの人生も終わりのときを迎えます。死んだ後、いったい何冊の本が残るでしょうか。100年後まで残る本は、きっとないでしょう。そう考えるとき、わたしもソロモンと一緒に「何という空しさ、すべては空しい」と言いたくなります。会社での出世や学問の世界での成功など、地上での栄光を求めるすべての努力に同じことが言えるでしょう。地上のことを追い求めても、すべては空しいのです。

 では、わたしたちの人生にいったいどんな意味があるのでしょう。死によってさえ奪われないもの。一生をかけて、そのために努力する価値があるものとは、いったい何なのでしょう。それは、愛だと思います。地上に蓄えられたものはすべて消え去りますが、神に捧げられた愛、人々のために捧げられた愛だけは、天に蓄えられ、いつまでも消えることがないのです。

 わたしの例で言えば、たとえ本は消えても、本を書くときわたしの心に燃え上がっていた「神からどれだけ愛されているかに気づかないまま、自分には価値がないと思い込んでいる人たちに、何とかして神の愛を伝えたい」という気持ち、その気持ちに込められた愛は、いつまでも消えず、わたしの心に、そしてその愛を受け止めてくれた人たちの心に残り続けるでしょう。その愛だけは、死によってさえ奪い去られることなくわたしの心に残り、わたしが死んだ後もこの世界に残るのです。

 人生の終わりに、自分がしてきたことを振り返るとき、大半が愚かで無駄なことだったとしても、その中にほんのわずかでも愛を見つけ出すことができたなら、わたしたちはきっと「こんなわたしの人生にも、確かに意味があった」と思い、満足して死ぬことができるのではないでしょうか。この世のものに一喜一憂することなく、本当に大切なもの、死でさえ奪うことができない愛のために生きられるよう、聖霊の助けと導きを祈りましょう。

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こころの道しるべ(126)心をまっすぐ整える

心をまっすぐ整える

目標に向かって心をまっすぐ整えれば、
生活もまっすぐ整ってゆきます。
目標を見失って心がぶれ始めると、
生活も同じようにぶれ始めます。
生活を整えたいなら、
まず心を整えることから始めましょう。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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