バイブル・エッセイ(1039)愛に目を覚ます

愛に目を覚ます

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(ルカ12:35-40)

「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と、イエスは弟子たちに言いました。「目を覚ましている」というのは、単に起きているということではなく、いつ主人が帰ってきてもいいように、自分の生活をきちんと整えなさい。主人に命じられたことを、忠実に果たしなさいということでしょう。主人である神さまの信頼に応え、いつも神のみ旨のままに生きること。それが、僕であるわたしたちの使命なのです。

 しかし、ときどきわたしたちの生活は乱れてしまうことがあります。それは、たとえば、何か大きな試練がやってきたときです。自分はこんなに頑張っているのに、誰も認めてくれない。願ったような結果が出ない。そんなときわたしたちはつい、人間も神も信頼できなくなり、「もうやっていられない。どうせわたしなんか」と思って自暴自棄になってしまうのです。自分が神の子であり、神から大切な使命を与えられていることを忘れるといってもよいでしょう。暴飲暴食をしたり、無駄な買い物をしたり、生活のリズムが不規則になったりするのは、そのようなときです。

 「どうせわたしなんか」ということは、つまり、「わたしは人間からも、神さまからも見捨てられた。誰からも愛されていないので、どうなっても構わない」ということだといってよいでしょう。生活が乱れるとき、わたしたちは、人間への信頼、神への信頼を失っているのです。そうだとすれば、神のみ旨のままに生活を整えるために何より必要なのは、どんなときでも神への信頼を失わないことだといってよいでしょう。神を信頼し、神の被造物である人間を信頼するとき、わたしたちは「こんなことでは、神さまの信頼を裏切ることになる。自分を信頼してくれているみんなの信頼を裏切ることになる。生活を改めよう」と思って、自分の生活を整えられるようになるのです。

 何がよいことで、何が悪いことなのかを幼稚園の子どもたちに教えるとき、わたしは、「こんなことをしたら、神さまは喜ぶかな、それとも悲しむかな」と子どもたちに尋ねます。すると、悪いことをしている場合には、「悲しむ」という答えが返ってきます。続けて「神さまを悲しませるようなことをしてもいいかな」と尋ねると、「いけない」という答えが返ってきます。子どもたちへの質問は、「お母さんは喜ぶかな」「○○くんは喜ぶかな」と言い換えることもできます。神さまがいつも自分のことを見守っていてくれる、お母さんや友だちが、いつも自分を信頼してくれている。そのことを思い出すとき、何をすればよいのか、何をしてはいけないのかということは、自然と分かるのです。

 「目を覚ましている」とは、自分が神から愛されていること、家族や友人、周りの人たちから愛されていることを忘れないことだといってもよいでしょう。神の愛、人々の愛に「目を覚ましている」限り、わたしたちは、自分の身を律し、神のため、人々のために正しい行いをすることができるのです。どんなときでも、神を悲しませるようなことをせず、ただ神を喜ばせることだけをして生きられるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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