【ともに走る教会】

ともに走る教会

 2月4日(日)に宇部市、ときわ公園で開催された第40回FMきらら杯宇部駅伝競走大会に、カトリック宇部教会、北若山教会、高千帆教会の三教会連合チームが参加、見事に完走を果たしました。チームのメンバーは15歳から65歳まで、中学校硬式野球の投手、幼稚園の教諭、理学療法士、歯科医、イタリア料理店のシェフ、神父など年齢も職業もさまざま。教会の信徒の皆さんもたくさん応援に駆けつけ、心を一つにして走り抜きました。「ともに走る教会」、どうぞ今後ともよろしくお願いします。

 

こころの道しるべ(204)過去への評価

過去への評価

過去は変えられませんが、
過去への評価は変えられます。
「あのせいでこんなことになった」
と思っている限り、
その過去に価値はありません。
「あれがあったからこそ今がある」
と思えるようになったなら、
そのとき、過去は限りない価値を持ちます。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1127)伝えずにいられない

伝えずにいられない

 そのとき、イエスは会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。(マルコ1:29-39)

 イエスを探しにやって来た弟子たちに向かって、イエスが「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する」という場面が読まれました。「他の町や村にも、福音を待っている人たちがたくさんいる。その人たちにも福音を告げずにいられない」というイエスの強い思いが感じられる言葉です。「苦しんでいる人がいるなら、その人を救わずにはいられない」という思いに突き動かされて生きた人、神の愛をまっすぐに生きた人。それがイエスだったのです。
 イエスが告げた福音とは、そもそもなんだったのでしょう。それは、すべての人が、かけがえのない神の子であり、神はあなたを愛しているということ。あなたの命は限りなく尊く、生きているというだけで十分に価値があるということに他なりません。社会の片隅に追いやられた人々、「自分なんて生きる価値がない」と思い込まされ、生きる希望を失った人々に生きる希望を与えたい、それがイエスの切なる思いだったのです。
 わたしも、そのような思いに駆られることがあります。たとえば、教誨のために刑務所にいくとき。車で1時間の山道を走り、刑務所まで行くのはなかなか大変ですが、それでも、受刑者の皆さんのことを思うと行かずにはいられません。この10年でたくさんの受刑者の方とお話してきましたが、受刑者の中には、「罪を犯した自分の人生には価値がない」「わたしなんかどうなってもいい」と思い込んでいる方が少なくありません。中には、子どもの頃に親元から離され、「自分は誰からも愛されたことがない」と感じている方もいます。そのような人たちに、「そんなことはありません。わたしはあなたに出会えて本当にうれしい。あなたは、かけがえのない神さまの子どもなんですよ」と語りかけずにはいられない。福音を伝えずにはいられない。そんな気持ちに駆り立てられ、わたしは刑務所に出かけて行きます。「行かなければならない」ではなく、「行かずにはいられない」気持ちになって出かけるのです。
 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」というパウロの気持ちも、ちょっとわかる気がします。「あなたは神さまの子ども、かけがえのない大切な命」と告げられて喜びに輝く人々の顔を見るとき、わたし自身の心にも大きな喜びが湧き上がってくるからです。パウロは、そのことを「福音に共にあずかる」といったのでしょう。福音を伝えることによって、わたしたち自身も福音を味わい、福音の喜びで満たされていく。それが福音を伝えることの何よりの報いなのです。
 わたしたちの周りにも、「年老いて何もできなくなった自分なんか、生きていても仕方がない」とか、「病気のわたしをかまってくれる人など誰もいない」とか、そのように思っている人がきっといるはずです。その人の存在に気づき、「福音を伝えずにはいられない」という気持ちに駆り立てられて出かけていくことができるように。福音を伝えることによって、わたしたち自身も福音に与ることができるように、心を合わせて祈りましょう。

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※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

 

こころの道しるべ(203)人生の意味

人生の意味

「もう駄目だ」と思うとき、
前提になっているのは
「これができなければ、これを失えば、
自分の人生には意味がない」
という思い込み。
たとえすべてを失っても、
生きているだけで
人生には意味があります。
駄目なことなど何もありません。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1126)悪霊を退ける

悪霊を退ける

 イエスは、安息日に(カファルナウムの)会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。(マルコ1:21-28)

 悪霊にとりつかれた男性が、「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と叫ぶ場面が読まれました。これは、男性にとりついた悪霊の言葉と思われますが、男性自身の言葉として読んでもいいでしょう。悪霊にとりつかれるとき、わたしたちは、助けの手を差し伸べようとする人に向かって、「わたしなんかにかまわないでくれ。どうせわたしなんか」といってしまうことがあるからです。
 「かまわないでくれ。どうせわたしなんか」という言葉は、その人が、人間としての自分のかけがえのない価値を見失っていることを示しています。なぜそのように考えてしまうのか。それは、この世の考え方、競争社会の論理がその人の心に深く入り込んでしまっているからだと思います。「わたしは、あれもできないし、これもできない。人から評価されるようなことが何もない。だから価値のない人間だ。どうなったってかまわない」。それが、「かまわないでくれ。どうせわたしなんか」という言葉に込められたその人の思いなのです。
 このような考え方は、「何かができる人には価値があり、何もできない人には価値がない」「生産性がある人には生きる価値があるが、生産性がない人には生きる価値がない」という価値観に基づいています。このような価値観は、自分自身に当てはめるときには、自分自身を自暴自棄に陥れて滅ぼし、他人に当てはめるときには、他人を差別して滅ぼす、まさに悪霊の価値観といってよいでしょう。悪霊は、わたしたちの心の中にいつの間にかこのような価値観を忍び込ませ、わたしたちを苦しめます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ」という言葉は、悪霊の叫びであると同時に、この男性自身の叫びでもあるのです。
 イエスは悪霊に向かって、「黙れ。この人から出て行け」と命じます。この言葉は、同時に男性に向かって、「そんな間違った考え方は捨てなさい」と呼びかける言葉だといってもいいでしょう。「何もできないこんなわたしには、愛される価値がない」と思い込んで頑なに心を閉す人に向かって、「あなたはかけがえのない神さまの子ども。何もできなくても、生きているというだけで十分に価値がある。あなたが毎日、精いっぱいに生きている姿を見て、神さまが天国でどんなに喜んでおられるか。あなたには想像もできないだろう」と語りかける方。そう語りかけることによってその人の心を愛で満たし、悪霊の入り込む隙間を埋めてしまう方。それがイエスなのです。
 わたし自身も、ときどき、「かまわないでくれ。どうせわたしなんか」という気持ちになってしまうことがあります。何か大きな失敗をしたり、周りの人たちから批判されたりしたときなど、人間としての自分の価値を見失い、「何もできない人間には価値がない」という悪霊の価値観に支配されてしまうことがあるのです。「こんなわたしでさえ、あるがままに受け入れ、愛してくださる神を信じられるのか」、それが問われていると思います。どんなときでも神の愛を信じて生きられるよう、わたしたちを絶望へと誘い込む悪霊の言葉を退けることができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(202)緊張の糸

緊張の糸

気持ちが張りつめているときは、
休まなくても疲れを感じず、
普段の何倍も働くことができます。
ですがそれは、
これまで蓄えた力を
すべて出し切ったということ。
緊張の糸が切れたときには、
動けなくなるのが当たり前です。
あせらず、ゆっくり回復を待ちましょう。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1125)人間をとる漁師

人間をとる漁師

 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。(マルコ1:14-20)

 湖で漁をしていたシモンとその兄弟アンデレに、イエスが、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかける場面が読まれました。印象に残るのは、イエスが「人間をとる漁師になりなさい」ではなく、「人間をとる漁師にしよう」と呼びかけていることです。自分の力で「なりなさい」というのではなく、わたしについてくれば、わたしがあなたたちを「人間をとる漁師」としてふさわしい者に育ててあげよう。イエスは、そういっているのです。
 「人間をとる」というのは、人々を神の愛へと招くことだと思ったらいいでしょう。神さまの愛にまだ気づいていない人のところに、神さまの愛を届け、人々を神さまの愛の網の中に集めていく。それが「人間をとる漁師」の使命なのです。では、どうしたら、わたしたちは人々の心に神さまの愛を届けることができるのでしょうか。わたしがよく思い出すのは、イエズス会日本管区で長く働き、そのあとイエズス会の総会長になったアルペ神父様のエピソードです。
 直接お会いしたことはないのですが、アルペ神父様をよく知る人たちによると、神父様は日本語があまりうまくなかったそうです。ですが、神父様が広島の修道院でしていた聖書勉強会には、いつもたくさんの人が集まっていました。そして、その中から多くの人たちが洗礼を受けたのです。あるとき不思議に思った人が、洗礼を受けた人に、「アルペ神父様のお話がわかったのですか」と尋ねました。すると、洗礼を受けたその人は、「いえ、ほとんどわかりませんでした。でも、『この人が信じているものなら間違いないだろう』と思って受洗を決意したのです」と答えたそうです。神さまに自分のすべてを捧げ、遠く日本までやって来て人々に神の愛を説くアルペ神父の姿。相手をいつくしみ深く見つめ、心の奥深くにまで愛を届けるアルペ神父のまなざし。自分のことをすべて脇に置き、ただ相手のことだけを思って行動するアルペ神父の人柄。それらを通して、集まった人たちは、アルペ神父のそばにいるだけで、「神がわたしを愛していてくださるというのは、間違いないことのようだ」と確信したのだと思います。
 「神さまはあなたを愛しています」ということは、誰にでもいえます。その言葉が相手の心に届くかどうか、神さまの愛が相手の心に届くかどうかは、それをいう人の生き様にかかっているといっていいでしょう。イエスについていった弟子たちは、イエスからそのような生き様を学びました。自分のことを脇に置き、十字架の死にいたるまで、ただ神と人々への奉仕のためだけに生涯を捧げたイエスと共に生きることによって、弟子たちも、神さまの愛を確かに人々の心に届けられる生き方、人々を神さまのもとに引き寄せてやまない無私の愛を学んだのです。イエスは、いま、わたしたち一人ひとりにも、「あなたを、人間をとる漁師にしよう」と呼びかけておられます。その招きに答え、イエスの生き方に学ぶことによって、「人間をとる漁師」にしていただくことができるよう共に祈りましょう。

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