バイブル・エッセイ(1126)悪霊を退ける

悪霊を退ける

 イエスは、安息日に(カファルナウムの)会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。(マルコ1:21-28)

 悪霊にとりつかれた男性が、「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と叫ぶ場面が読まれました。これは、男性にとりついた悪霊の言葉と思われますが、男性自身の言葉として読んでもいいでしょう。悪霊にとりつかれるとき、わたしたちは、助けの手を差し伸べようとする人に向かって、「わたしなんかにかまわないでくれ。どうせわたしなんか」といってしまうことがあるからです。
 「かまわないでくれ。どうせわたしなんか」という言葉は、その人が、人間としての自分のかけがえのない価値を見失っていることを示しています。なぜそのように考えてしまうのか。それは、この世の考え方、競争社会の論理がその人の心に深く入り込んでしまっているからだと思います。「わたしは、あれもできないし、これもできない。人から評価されるようなことが何もない。だから価値のない人間だ。どうなったってかまわない」。それが、「かまわないでくれ。どうせわたしなんか」という言葉に込められたその人の思いなのです。
 このような考え方は、「何かができる人には価値があり、何もできない人には価値がない」「生産性がある人には生きる価値があるが、生産性がない人には生きる価値がない」という価値観に基づいています。このような価値観は、自分自身に当てはめるときには、自分自身を自暴自棄に陥れて滅ぼし、他人に当てはめるときには、他人を差別して滅ぼす、まさに悪霊の価値観といってよいでしょう。悪霊は、わたしたちの心の中にいつの間にかこのような価値観を忍び込ませ、わたしたちを苦しめます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ」という言葉は、悪霊の叫びであると同時に、この男性自身の叫びでもあるのです。
 イエスは悪霊に向かって、「黙れ。この人から出て行け」と命じます。この言葉は、同時に男性に向かって、「そんな間違った考え方は捨てなさい」と呼びかける言葉だといってもいいでしょう。「何もできないこんなわたしには、愛される価値がない」と思い込んで頑なに心を閉す人に向かって、「あなたはかけがえのない神さまの子ども。何もできなくても、生きているというだけで十分に価値がある。あなたが毎日、精いっぱいに生きている姿を見て、神さまが天国でどんなに喜んでおられるか。あなたには想像もできないだろう」と語りかける方。そう語りかけることによってその人の心を愛で満たし、悪霊の入り込む隙間を埋めてしまう方。それがイエスなのです。
 わたし自身も、ときどき、「かまわないでくれ。どうせわたしなんか」という気持ちになってしまうことがあります。何か大きな失敗をしたり、周りの人たちから批判されたりしたときなど、人間としての自分の価値を見失い、「何もできない人間には価値がない」という悪霊の価値観に支配されてしまうことがあるのです。「こんなわたしでさえ、あるがままに受け入れ、愛してくださる神を信じられるのか」、それが問われていると思います。どんなときでも神の愛を信じて生きられるよう、わたしたちを絶望へと誘い込む悪霊の言葉を退けることができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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