こころの道しるべ(201)無理のない計画

無理のない計画

気になることがあると、
時間があっても、落ち着いて何かに
取り組むことができません。
たくさんのことができると思っても、
実際にはあまりできずに時間が過ぎ、
いら立ちが募るのです。
無理な計画を立てず、
できることから始めましょう。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1124)何を求めているのか

何を求めているのか

 ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。(ヨハネ1:35-42)

 「何を求めているのか」というイエスの問いに、ヨハネの弟子たちが「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と答える場面が読まれました。「『神の小羊』と呼ばれるわたしに、あなたたちが求めているものは何か」という問いに対する答えとしては、ちょっとちぐはぐなものに聞こえますが、とっさの答えとしては意外と本質を突いているかもしれません。なぜなら、その人が住んでいる場所を見れば、その人が何を求めて生きている人なのかがよく分かり、その人に対して何を求めたらいいのかもよく分かるからです。
 たとえば、いまインドのコルカタにある「神の愛の宣教者会」本部修道院に行くと、マザー・テレサが使っていた部屋を見ることができます。簡易ベッドと事務机、世界中から届く手紙を整理しておくための棚しかない、とても簡素な部屋です。棚の上に無造作においてある段ボール箱の中には、世界中から贈られた勲章、表彰状などが入れてあるとのことです。この部屋がわたしたちに教えてくれるのは、マザーがただ、人々に奉仕するためだけに生き、自分のためには何も求めていなかった。地上の栄光などにはまったく関心がなかったということです。この部屋を見る人は、みな、マザーがただ神の愛のためだけに生きた人だったことを知るでしょう。そのような部屋に住む人のところに、地上での贅沢や名誉を求めて集まる人はいないはずです。マザーのもとに集まる人たちも、みな、神の愛だけを求めて集まったのです。
 ヨハネの弟子たちは、イエスの住む場所にいったい何を見たのでしょう。イエスが泊っていたのがどんな場所だったのか、はっきりとはわかりません。ただ、「人の子には枕するところもない」「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず」行くようにといったイエスの言葉から、洞窟のようなところで野宿をしていたのかもしれない。どこかに間借りしていたとしても、ほとんど私物のない、簡素な暮らしをしていただろうと想像されます。イエスの泊っているその場所を見たとき、ヨハネの弟子たちは、イエスが自分自身のことはまったく考えず、ただ神の愛のためだけに生きている人であることを悟ったに違いありません。そして、その場所で一緒に一晩を過ごす中で、イエスこそ神のために自分のすべてを捧げた「神の小羊」、自分たちが本当についていくべき「メシア」だと確信したのです。
「来なさい。そうすれば分かる」というイエスの言葉は、まさに現実のものとなりました。イエスの泊っているところを知り、イエスと共に過ごすことによって、弟子たちは自分たちが何を求めているのか、何を求めるべきなのかを知ったのです。もしわたしたちが、地上での成功や快楽、栄光などを求めているなら、イエスのもとに集まっても何の意味もありません。イエスがわたしたちに与えてくださるのは、ただ神の愛だけだからです。イエスの暮らしぶりを思い起こし、また自分自身の生活を振り返りながら、「何を求めているのか」というイエスの言葉をもう一度よく味わってみましょう。

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こころの道しるべ(200)互いの幸せ

互いの幸せ

憎しみあう人たちのあいだでは、
相手の不幸が自分の幸せ。
だから、互いに足を引っ張りあって、
共倒れになるのです。
愛し合う人たちのあいだでは、
相手の幸せが自分の幸せ。
だから、互いを幸せにしようと努力し、
二人とも幸せになれるのです。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1123)わたしたちの救い

わたしたちの救い

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、 お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイ2:1-12)

 星に導かれて、ベツレヘムのヨセフの家にたどりついた3人の博士たち。彼らが「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み」贈り物を捧げたとマタイ福音書は記しています。母マリアの腕に抱かれたイエスの前で、3人の博士たちはひれ伏したのです。果してこのとき、3人の博士たちは何を思っていたのでしょうか。
 そもそも、博士たちはなぜ旅に出たのでしょう。きっかけとなったのは、彼らがメシアの誕生を知らせる星を見たことでした。その星を見たとき、彼らは長く、危険な旅に出る決意をしました。その星の下で、自分たちの探している一番大切なもの、自分たちを苦しみから救い出してくれる何かと出会えると思ったからです。彼らは博士で、また王でもありましたから、お金も権力も知識も人並み外れて持っていたはずです。これ以上、救われる必要などないようにも思えますが、人間はそれだけでは幸せになれない。何かもっと別なものが必要だと彼らは感じていたのでしょう。だからこそ、その何かを探して旅に出たのです。
 長い旅の果てに彼らが見たもの、それはあたたかなヨセフの家の中で、すやすやと幸せそうに眠っている幼子の姿でした。他の赤ん坊とまったく変わらない、母の腕に抱かれた小さくて無力な命。それが救い主だと知ったとき、彼らは何を思ったのでしょう。彼らはもしかすると、自分自身も、このような無力な赤ん坊としてこの世に生まれたことを思い出したかもしれません。幼い子どもの頃、母の腕のぬくもりの中で感じた幸せ。何もできない無力な自分を、あるがままに受け入れ、守ってくれた母の愛を思い出し、人間にとって一番大切なのは、そのような愛と出会うことなのだと気づいた。自分を無条件に受け入れてくれる愛に包まれていること。それこそが、人間の本当の幸せなのだと気づいて、母マリアと幼子イエスの前にひれ伏した。わたしは、そのように想像しています。
 母マリアの腕に抱かれた幼子イエスのご像や絵が、世界中のカトリック教会に飾られていることには、とても深い意味があると思います。なぜなら、そのご像や絵は、わたしたちに与えられた救いそのものを表しているからです。人間は、どんなにお金や権力、知識があっても、それだけでは幸せになれません。人間が幸せになるために本当に必要なもの。それは、何も持たず、何もできない自分をあるがままに受け入れてくれる母の愛であり、神の愛なのです。母マリアの腕に抱かれた幼子イエスの姿は、わたしたちにそのことを教えてくれます。母マリアの腕に抱かれた幼子イエスのご像や絵こそ、言葉ではなく、目に見える形で表現された福音なのだといってもよいでしょう。
 御公現の祭日に当たって、あらためてそのことを思い出し、救いの恵みを味わいたいと思います。どんなときでも、わたしたちは、わたしたちのことをあるがままの姿で受け入れてくださる神の愛の中にいる。わたしたちの救いはそこにあるのです。救いの喜びをかみしめながら、3人の博士と共に感謝の祈りを捧げましょう。

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バイブル・エッセイ(1122)苦しみの意味

苦しみの意味

 そのとき、羊飼いたちは、急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカ2:16-21)

 羊飼いたちの話を聞いて、その場に居合わせた人々はただ不思議に思っただけだったが、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とルカ福音書は記しています。子どもを、寒くて不衛生な家畜小屋で生まなければならなかったということ。羊飼いたちに天使が現れ、「あなたがたのために救い主が生まれた」と告げたということ。そしていま、羊飼いたちがそのお告げ通りの光景を見て大喜びしているということ。それらの出来事を「心に納め」たマリアは、いったい何を思っていたのでしょう。
 羊飼いたちがやって来るまで、マリアはきっと、「救い主であるはずの自分の子どもが、なぜ、こんな家畜小屋で生まれなければならなかったのだろう。なぜこの子は、こんな寒さや臭い、不衛生な環境に耐えなければならないのだろう」と思っていたことでしょう。生まれたばかりの自分の子どもに与えられた過酷な試練の意味を思い巡らし、神に問いかけていたのです。
 羊飼いたちがやってきたとき、その問いに答えがもたらされました。野宿暮らしで汚れた服を着、羊のにおいを漂わせている羊飼いたちが、同じように不衛生な環境や寒さ、臭いに耐えているイエスの姿を見て、「この方こそ、わたしたちの救い主に間違いない」と確信し、救いの喜びに満たされている。もしイエスが、暖房の効いたきれいな部屋に寝かされていれば、羊飼いはその姿を見て自分たちの救い主だと思っただろうか。生まれたばかりの幼子イエスが味わっている苦しみには確かに意味があった。イエスは、羊飼いのような貧しい人たちと同じ苦しみを味わい、彼らの苦しみを共に担うことによって、彼らのための救い主になるために生まれてきたのだ。それが、マリアの問いへの答えだったのです。
 マリアがこのとき、すぐこの答えにたどりついたかどうかは分かりません。しかし、イエスが成長して家を出、貧しい人々のもとに福音を告げる旅を始めたとき。さらに、十字架上で人間のすべての苦しみを自分自身のこととして担い、苦しみながら死んでいったとき。イエスの死後、その生涯を改めて思い巡らしてみたとき、いずれかの段階でこの結論に到達し、その確信を深めていったに違いないと思います。イエスが、人間と共に苦しむことによって人間を救う救い主であることを、マリアは確かに悟っていたのです。
 自分は贅沢な暮らしをしながら、貧しい人たちにお金を与えることによって貧しい人々を救う「救い主」ということもありえたかもしれません。しかし、神はそのようなやり方を望まれませんでした。それでは人間の心を救うことはできない。人間を救うためには、神自身が人間の苦しみを共に味わい、人間を愛し抜く以外にないとわかっていたからです。人間を救うためには、その人と同じ目線に立ってその人を愛する以外にないと、神はよく知っておられたのです。
 イエスがもたらした救いの意味を、もう一度マリアとともに「思い巡らし」、その恵みを深く味わうことができるように。また、わたしたちも人々の苦しみを共に担うことによってイエスの救いのわざに参加することができるように、心を合わせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(199)強い心

強い心

謙遜な心は、
思った通りにならない相手でも
あるがままに受け入れ、
動じることがありません。
傲慢な心は、相手がちょっと
自分の思った通りにならないだけでも、
いら立ちや怒りにかき乱されます。
本当に強いのは、
傲慢な心ではなく謙遜な心です。

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バイブル・エッセイ(1121)神に捧げる

神に捧げる

 モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。(ルカ2:22、39-40)

 ヨセフとマリアが、生まれたばかりのイエスを神に捧げる場面が読まれました。「両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った」と語られていますが、実際にこのとき捧げられたのは、イエスだけでなく、ヨセフ、マリアも含めた聖家族の全員だったといってよいでしょう。自分にとって一番大切な子どもを捧げることは、両親にとって、自分自身を捧げるにひとしいことだからです。
 では、子どもを神に捧げる、家族全体を神に捧げるとは、具体的にどういうことでしょう。それは、子どもを、親の思いによってではなく、神のみ旨のままに育てていくということ。家族全員が、自分たちの思いのためではなく、ただ神のみ旨のままに生きていくということだと思います。親として、世間に恥じないような人になって欲しいとか、果たせなかった自分の夢を果たして欲しいとか、そのような思いが湧いてくることもあるでしょう。しかし、そのような思いは神にお捧げし、ただ神が望むままに子どもを育てられるように祈る。自分の思った通りになってもならなくても、ただ神のみ旨のままになるようにと祈りながら子どもを育てていく。それが、子どもを神に捧げるということでしょう。そのように育てたときにだけ、子どもは「神の恵みに包まれて」神から与えられた自分の使命を見つけ出し、自分らしく生きることができるのです。
 子どもを神に捧げるためには、家族全体が神に捧げられる必要があるでしょう。家族全体が神のみ旨に反し、自分たちの思いだけに従って生きるなら、家族の一員である子どもも、神のみ旨のままには生きられないからです。自分たちの将来について夫婦にさまざまな思いがあるかもしれませんが、それも神の手に委ねる。自分たちが望んでいる通りであっても、そうでなくても、神の手にすべてを委ね、日々を喜んで生きていく。そのようにして家族全体を神に捧げるとき、子どもも、その家族の一員として神のみ旨のままに生きられるのです。
 1年の終わりにあたって、神に願いたいことはたくさんあるでしょう。わたし自身、「来年はああなって欲しい。こうなって欲しい」というような思いがたくさんあります。しかし、本当に幸せになりたいなら、神のみ旨のままに生き、「神の恵みに包まれて」生きたいなら、そのような思いはいったん脇に置く必要があるでしょう。「わたしとしてはこのような思いでいますが、それがわたしの幸せとは限りません。すべてをご存知のあなたが、一番よいと思われるようにしてください」と祈り、自分を神に捧げることが大切だと思います。人間は誰もが幸せを願っていますが、私利私欲に駆られ、何が自分にとって本当の幸せなのか、何が一番大切なことなのかを見失ってしまうことが多いからです。1年の終わりに当たって、自分の心をもう一度よく見つめ直し、自分自身を神に捧げることができるように。子どもを、家族を神に捧げることができるように、心を合わせて祈りましょう。

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