バイブル・エッセイ(1125)人間をとる漁師

人間をとる漁師

 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。(マルコ1:14-20)

 湖で漁をしていたシモンとその兄弟アンデレに、イエスが、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかける場面が読まれました。印象に残るのは、イエスが「人間をとる漁師になりなさい」ではなく、「人間をとる漁師にしよう」と呼びかけていることです。自分の力で「なりなさい」というのではなく、わたしについてくれば、わたしがあなたたちを「人間をとる漁師」としてふさわしい者に育ててあげよう。イエスは、そういっているのです。
 「人間をとる」というのは、人々を神の愛へと招くことだと思ったらいいでしょう。神さまの愛にまだ気づいていない人のところに、神さまの愛を届け、人々を神さまの愛の網の中に集めていく。それが「人間をとる漁師」の使命なのです。では、どうしたら、わたしたちは人々の心に神さまの愛を届けることができるのでしょうか。わたしがよく思い出すのは、イエズス会日本管区で長く働き、そのあとイエズス会の総会長になったアルペ神父様のエピソードです。
 直接お会いしたことはないのですが、アルペ神父様をよく知る人たちによると、神父様は日本語があまりうまくなかったそうです。ですが、神父様が広島の修道院でしていた聖書勉強会には、いつもたくさんの人が集まっていました。そして、その中から多くの人たちが洗礼を受けたのです。あるとき不思議に思った人が、洗礼を受けた人に、「アルペ神父様のお話がわかったのですか」と尋ねました。すると、洗礼を受けたその人は、「いえ、ほとんどわかりませんでした。でも、『この人が信じているものなら間違いないだろう』と思って受洗を決意したのです」と答えたそうです。神さまに自分のすべてを捧げ、遠く日本までやって来て人々に神の愛を説くアルペ神父の姿。相手をいつくしみ深く見つめ、心の奥深くにまで愛を届けるアルペ神父のまなざし。自分のことをすべて脇に置き、ただ相手のことだけを思って行動するアルペ神父の人柄。それらを通して、集まった人たちは、アルペ神父のそばにいるだけで、「神がわたしを愛していてくださるというのは、間違いないことのようだ」と確信したのだと思います。
 「神さまはあなたを愛しています」ということは、誰にでもいえます。その言葉が相手の心に届くかどうか、神さまの愛が相手の心に届くかどうかは、それをいう人の生き様にかかっているといっていいでしょう。イエスについていった弟子たちは、イエスからそのような生き様を学びました。自分のことを脇に置き、十字架の死にいたるまで、ただ神と人々への奉仕のためだけに生涯を捧げたイエスと共に生きることによって、弟子たちも、神さまの愛を確かに人々の心に届けられる生き方、人々を神さまのもとに引き寄せてやまない無私の愛を学んだのです。イエスは、いま、わたしたち一人ひとりにも、「あなたを、人間をとる漁師にしよう」と呼びかけておられます。その招きに答え、イエスの生き方に学ぶことによって、「人間をとる漁師」にしていただくことができるよう共に祈りましょう。

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