バイブル・エッセイ(1127)伝えずにいられない

伝えずにいられない

 そのとき、イエスは会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。(マルコ1:29-39)

 イエスを探しにやって来た弟子たちに向かって、イエスが「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する」という場面が読まれました。「他の町や村にも、福音を待っている人たちがたくさんいる。その人たちにも福音を告げずにいられない」というイエスの強い思いが感じられる言葉です。「苦しんでいる人がいるなら、その人を救わずにはいられない」という思いに突き動かされて生きた人、神の愛をまっすぐに生きた人。それがイエスだったのです。
 イエスが告げた福音とは、そもそもなんだったのでしょう。それは、すべての人が、かけがえのない神の子であり、神はあなたを愛しているということ。あなたの命は限りなく尊く、生きているというだけで十分に価値があるということに他なりません。社会の片隅に追いやられた人々、「自分なんて生きる価値がない」と思い込まされ、生きる希望を失った人々に生きる希望を与えたい、それがイエスの切なる思いだったのです。
 わたしも、そのような思いに駆られることがあります。たとえば、教誨のために刑務所にいくとき。車で1時間の山道を走り、刑務所まで行くのはなかなか大変ですが、それでも、受刑者の皆さんのことを思うと行かずにはいられません。この10年でたくさんの受刑者の方とお話してきましたが、受刑者の中には、「罪を犯した自分の人生には価値がない」「わたしなんかどうなってもいい」と思い込んでいる方が少なくありません。中には、子どもの頃に親元から離され、「自分は誰からも愛されたことがない」と感じている方もいます。そのような人たちに、「そんなことはありません。わたしはあなたに出会えて本当にうれしい。あなたは、かけがえのない神さまの子どもなんですよ」と語りかけずにはいられない。福音を伝えずにはいられない。そんな気持ちに駆り立てられ、わたしは刑務所に出かけて行きます。「行かなければならない」ではなく、「行かずにはいられない」気持ちになって出かけるのです。
 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」というパウロの気持ちも、ちょっとわかる気がします。「あなたは神さまの子ども、かけがえのない大切な命」と告げられて喜びに輝く人々の顔を見るとき、わたし自身の心にも大きな喜びが湧き上がってくるからです。パウロは、そのことを「福音に共にあずかる」といったのでしょう。福音を伝えることによって、わたしたち自身も福音を味わい、福音の喜びで満たされていく。それが福音を伝えることの何よりの報いなのです。
 わたしたちの周りにも、「年老いて何もできなくなった自分なんか、生きていても仕方がない」とか、「病気のわたしをかまってくれる人など誰もいない」とか、そのように思っている人がきっといるはずです。その人の存在に気づき、「福音を伝えずにはいられない」という気持ちに駆り立てられて出かけていくことができるように。福音を伝えることによって、わたしたち自身も福音に与ることができるように、心を合わせて祈りましょう。

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