朝日新聞記事「存在理由ない死刑」

 今回の入門講座で扱った死刑制度の問題について、わたし自身が死刑制度を考えるきっかけになった出来事をご紹介しておきたいと思います。
朝日新聞夕刊2001年3月5日掲載「こころ」より
『存在理由ない死刑』 
 カトリックの呼びかけで死刑制度を問いなおすキャンペーンが始まった。死刑囚の絵画展をはじめ、プロテスタントや仏教者と共催する祈りの集いなどがある。いのちの尊厳を訴え、信仰の根底にいる「罪と赦し」を考えたいという。(由衛辰寿)
カトリック司教団などが呼びかけ
 死刑制度の問題は、日本カトリック司教協議会が2月23日に発表した司教団メッセージ『いのちへのまなざし』で取り上げられた。これまでローマ法王ヨハネ・パウロ2世がたびたび廃止を求めてきたが、存置国の司教団としてあらためてこう見解を発表した。
《死刑は、犯罪被害者の遺族にとって本当のいやしにはならず、犯罪抑止力にもなっていない。存在理由を失いつつある》
 キャンペーンを呼びかけたのはイエズス会神学生の片柳弘史さん。この問題にかかわるきっかけは一人の死刑囚との交流だった。1997年、修道女に拘置所の訪問に誘われた。面会室でガラス越しに出会ったのは、青白い顔をして気弱そうな男性だった。
 後で死刑判決を受けていると聞かされて驚いた。「凶悪な殺人犯」という、自分が抱いていた死刑囚のイメージとの違いに戸惑った。男性から面会の礼状が来た。返事を書いたのがきっかけで月一度ほどの文通が始まった。内容は互いの近況報告から、なぜ人を殺したのかということまで及んだ。
 死刑囚と自分を隔てていた壁が崩れていった。「これまでは死刑囚を見たくないものとして排除し、心の平安を得ていたのではないか」と振り返った。キリスト者として力になってあげたい気持ちと、事件記録で分かる強盗殺人という犯罪に目をそむけたい気持ち。心の葛藤があったが、こう自問するようになった。
 「罪は罪として恐ろしく、非難されるべきものだ。だが、その罪が、犯した人のいのちを奪う理由になるのだろうか」
 昨年、死刑判決が確定した。面会も文通もできなくなる直前、死刑囚から、自分の描いた絵を展示してほしいという意向が伝えられた。
エスも死刑囚
 《敵を愛しないさい》と教えたイエスも死刑囚だった。「ルカによる福音書」の描くイエスは、自分を十字架につける者のために天の父に赦しを願った。
 片柳さんは「死刑囚と向き合うことは、人間の罪とその償い、赦しとは何かを考える機会。キリスト者として信仰の根底を見つめ直すことにもなる」と考え、絵画展を含むキャンペーンを企画した。カトリック司教協議会に伝えたところ、司教団メッセージを検討していたこともあり、修道女たちの協力も得られた。
遺族の話を聞く
 3月中に東京千代田区カトリック麹町教会(聖イグナチオ教会)で、今までとは違った角度から死刑制度を考える連続勉強会を開く。7日夜は、加害者の死刑囚と文通を続け、「生きて罪を償ってほしいと思うようになった被害者の遺族の話を聞く。21日には、社会から疎外されて苦しむ死刑囚の家族と交流している修道女が話す。
 獄中で描かれた「いのちの絵画展」には、片柳さんと交流のあった死刑囚のほか、執行が終わった死刑囚の作品も出る。絵を通して、すばらしさや美しさと同時に弱さや醜さも抱えた人間を見つめてもらいたいという。山口ザビエル記念聖堂や上智大学など全国9ヵ所を巡回する。
共同で廃止願う
 「超教派の祈りの集い」は6月、麹町教会で開かれる。元死刑囚や被害者の遺族や死刑囚の家族それぞれの体験を聞き、死刑廃止を祈願する予定だ。97年に地雷廃止を祈る集いを宗教の違いを超えて実現した諸団体が再び協力する。
 プロテスタント諸派で作る日本キリスト教協議会(NCC)は94年に「死刑制度の廃止を求める決議」を総会で採択し、死刑執行のたびに抗議声明を出してきた。山本俊正幹事(牧師)は「人のいのちは神に与えられたものであり、人が左右することのできない尊厳なものです」と語る。
 超教派の仏教者NGOであるアーユス仏教国際協力ネットワークの大河内秀人事務局長(浄土宗僧侶)は「不殺生戒や慈悲を説く仏教の教えから死刑は受け入れ難いし、人権と平和は宗教を超えた普遍的な価値があるものだと思います」と語る。
 先進国で死刑制度が残されているのは米国(一部の州では廃止)と日本だけである。