マザー・テレサに学ぶキリスト教(18)教会とは何か③教会の一致

第18回教会とは何か③教会の一致
 マザー・テレサは「神の愛の宣教者会」という修道会の修道女でしたが、カトリック教会の中にはイエズス会ドミニコ会フランシスコ会サレジオ会など他にもたくさんの修道会があります。さらに、それとは別に司教様を中心とした教区という組織も存在しています。それらの組織は、教会の中でどのように一致を保っているのでしょうか。
 また、教会といった場合、カトリック教会以外にもギリシア正教会、プロテスタント教会などがあります。それらの諸教会とカトリック教会は、果たして一致の中にあると言えるのでしょうか。今回は、教会の一致について考えてみたいと思います。

1.カトリック教会の一致
 カトリック教会の一致の頂点に立つのは教皇です。教皇を頂点として、教区と修道会という2通りの統治機構が教会の中に存在しています。
(1)教皇
 教皇は、イエス・キリスト自身が教会の長に選んだ聖ペトロの後継者として、教会の統治の首位に立つ方です。教皇の顧問団ともいうべき枢機卿たちによる選挙で選ばれ、一度選ばれると原則として死ぬまでその職責を負うことになります。この選挙は、バチカンのシスティナ礼拝堂で行われます。
(2)教皇庁
 教皇は、全世界に広がる教会全体を適切に指導するため、教皇庁という行政機関を組織しています。教皇庁には教理省、典礼秘跡省、福音宣教省、東方教会省、司教省、聖職者省、奉献・使徒的生活者省などの省庁が置かれ、それぞれに長官として枢機卿が任命されています。
(3)教区
 教区は、地理的ないし人的要因によって区切られた、教会統治のための組織です。それぞれの教区には、教区長として司教が任命されています。司教を任命するのは教皇です。
司教のもとでは、司教の司牧を補佐するために教区所属の司祭や助祭たちが働いています。ときには、修道会に所属する司祭も、司教への従順を約束して司教の司牧活動を援助することがあります。
(4)修道会
 修道会は、清貧、貞潔、従順の修道誓願を立て、共同生活を送りながら奉献生活を行うことを選んだ信者たちの構成する組織です。それぞれの修道会に修道会長がおり、修道会長は直接教皇の統治のもとにあります。司教は、修道会全体の運営について干渉することができません。修道会長の下には、各修道院の院長が任命されています。大きな修道会では、その中間に、管区長、地区長などを設けている会もあります。それぞれの修道院に住む司祭たちは、その地の司教に対しても従順を誓っています。

2.教皇は間違わないのか?
 カトリック教会は、教会の一致の要となる教皇は信仰と道徳の指導において決して間違い得ないと信じています。このことを、「教皇の不可謬性」の教義と言います。その根拠について考えてみましょう。
(1)不可謬であるための条件
 教皇の不可謬性は、次のように定義されます。教皇が、①公的人物として、②最高の牧者の立場から、③信仰と道徳について宣言するとき、④その宣言は不可謬であり、全教会を拘束する。
 ちなみに、この条件をすべて満たす宣言は、これまでに2回だけ出されたと言われています。1854年の聖母の無原罪の宿りについての教義宣言と、1950年の聖母の被昇天についての教義宣言です。その他の教皇文書については、不可謬であるかのような尊敬を持って扱うべきであるとされています。教皇の不可謬の宣言は、その教えが教会全体で大切に守られているか、歴史の中に確固とした根拠を持っているかなどを十分に考慮した上でなされますから、教皇が勝手に何かを教えとして決められるということではありません。
(2)なぜ不可謬なのか?
 なぜ教皇は、そのような条件下で誤ることがないと言えるのでしょうか。その根拠は、教会の不可謬性にあります。イエス・キリストの教えを正しく受け継ぎ、イエス・キリストの霊によって導かれた教会は、その限りで決して誤ることがないはずだというのが、すべての土台です。
 この土台の上に、まず信者の総体(個人ではなく)は誤ることがないということが言えます。次に、司教団も教皇との交わりの中で特定の教義を不可謬の教義として宣言することができます。このような不可謬性の最も特殊な事例が、教皇の不可謬性です。イエスが初代教会のリーダーとして選んだペトロの後継者である教皇聖霊が働くならば、教皇は誤りえないはずだという信頼の表現が、教皇の不可謬性だと言えるでしょう。

3.諸教会との一致
 カトリック教会は、完全な意味でイエス・キリストに由来し、イエス・キリストの教えを正しく守っている教会はカトリック教会だけだと考えています。なぜなら、カトリック教会だけが使徒の時代から継承された司祭職を守り、初代教会のリーダーであったペトロの後継者としての教皇を頂点とした一つの集団を維持しているからです。司祭だけがすべての秘跡の頂点としての聖餐式を執り行うことができますから、その意味でも司祭職というのはカトリック教会にとって決定的に重要です。
 では、イエス・キリストを信じる他の教会や団体は、カトリック教会にとってどのような存在なのでしょうか。諸教会と一致していく道はないのでしょうか。第二バチカン公会議の公文書「エキュメニズムに関する教令」に従って見ていきたいと思います。
(1)東方教会
 古代における教義論争や、中世における東西教会の相互破門によってカトリック教会から離れていったけれども、使徒継承の司祭職と聖餐式を固く守っている東方の諸教会を、カトリック教会は「姉妹教会」と呼んでいます。ただし、昨年発表された教理省の文章によれば、東方の諸教会も教皇との交わりという教会の本質的要素を欠いているという点で不完全な教会だということになります。
 前回もお話ししましたが、11世紀に行われた東西教会の相互破門は、1965年に解除されています。今後の対話の進展が期待されるところです。東方教会の信徒には、カトリック教会で聖体拝領することが認められています。
(2)西方における別れた諸教会と諸教団
 いわゆるプロテスタントの諸教派のことを、カトリック教会は「別れていった兄弟たち」と呼んでいます。プロテスタントカトリックは、聖書を大切にするという点で共通していますから、聖書が彼らとの対話の土台になります。
カトリック教会から見た場合、プロテスタントには使徒継承の司祭職がないため、有効な聖餐式も存在しません。それゆえ、プロテスタントの諸教派は、「適切な意味で教会ではない」と言われています。
主に秘跡をめぐってこのような違いがみられますが、近年では教義上の歩み寄りもみられます。1999年にはルター派世界連盟カトリック教会の間で、人間は神の恵みによってのみ救われることを確認した「義認の教義についての共同宣言」が出されましたし、2006年にはこの宣言にメソジスト派も参加しています。
(3)聖公会
 イギリス国教会を起源とする聖公会は、他のプロテスタント教会と違って教義上の理由ではなく、政治的な理由からカトリックと別れたため、典礼や教義、制度においてカトリックと多くの共通点があります。具体的な例としては、聖公会もマリア崇敬や司教制度などを持っています。2004年には、カトリック聖公会の間でマリア崇敬についての共同宣言が出され、共同礼拝が行われました。但し、聖公会信徒がカトリック教会で聖体拝領することはまだ認められていません。2009年11月には、聖公会の聖職者、信徒をカトリック教会の中に広く受け入れることを可能にする使徒憲章が発表されました。
(4)エキュメニズム
 このような相互の違いを乗り越えて、イエス・キリストのもとに教会を一つに結びつけようとする運動をエキュメニズムと言います。同じイエス・キリストを信じる者どうしがいがみ合い、争いあっているという事実は、誰にとっても大きなつまずきになりますし、とても不幸なことです。同じイエス・キリストを信じるキリスト教徒は、一つの教会のもとに一致を保つべきでしょう。
イエス・キリストが教会を設立したとき、教会はただ一つでした。イエス・キリストを唯一の救い主と信じるという一点においては確実に一致していながら、現在たくさんの教派に分かれているキリスト教信者が、相互の対話を進め、理解を深めることで、違いを乗り越え、受け入れあっていくことができればと思います。

4.教会だけが唯一の救いの道なのか?
 ここまで教会の一致について考えてきましたが、最後に教会の外には救いがないのかについて考えてみようと思います。イエス・キリストを信じない人たち、教会の交わりの中にどうしても入れない人たちに救いはないのでしょうか。
(1)「教会の外に救いなし」
 「教会の外に救いなし」という言葉があります。教会の外の世界は悪にまみれた世界であって、教会の中にとどまるときにだけ救われることができるという意味で使われてきた言葉です。もともとこの言葉は、教会を分裂させることを戒めるためにキリスト教徒に対して使われた言葉でしたが、次第に教会の外にいる人たちに対しても使われるようになっていったと言われています。
 このような教会理解の象徴的な表現が、「ノアの方舟」としての教会であり、「ペトロの舟」(ルカ5:3,マタイ8:23-27)としての教会です。この教会理解に立つと、舟の外は悪と混沌に満ちた世界で、人間は教会という舟に乗りこむことによってのみ救われるということになります。
(2)キリストの唯一絶対性
 「教会の外に救いなし」という言葉は、ある意味でカトリック教会において現代でも大切に守られている考え方です。その根拠はイエス・キリストの唯一絶対性にあります。
 イエス・キリストについて学んだ回の復習になりますが、キリスト教では、神がどのような方であるかはイエス・キリストによってのみ全人類に完全に示されたと考えられています。その意味で、人類はイエス・キリストを通してしか神に到達することができない、すなわち救われることがないということになります。また、十字架上で起こった神の愛と人間の愛の完全な出会いも、歴史の中でたった一度だけ起こったことだと考えられています。その意味でも、人類はイエス・キリストにおいてしか神との完全な交わりに入ることができない、すなわち救われることがないということになります。キリスト教において、すべての救いはイエス・キリストただ1人に由来するのです。この信仰は、イエス・キリスト以外に救いはないという信仰を当然含んでいます。これが、イエス・キリストの唯一絶対性ということです。
(3)教会の唯一絶対性
 教会の唯一絶対性は、このイエス・キリストの唯一絶対性に由来しています。イエスの死後、教会はイエス・キリストの目に見える身体として福音宣教の使命を担いました。教会は、もはや触れることも見ることもできなくなったイエス・キリストの身体に代わって、この地上に神の愛を実現し、宣べ伝えるための道具になったのです。イエスが生前に建てられた教会、イエス・キリストを信じる人々の集いはただ一つだけでしたから、イエス・キリストの教えはその教会だけに正しく伝えられていると考えられます。
 イエス・キリストの教えが救いに至る唯一の道であり、その教えを正しく伝えているのが教会だけだとすれば、当然救いに至る唯一完全な道は教会だけだということになります。その意味で、カトリック教会は教会の伝えるイエスの教えが唯一絶対だ、と考えるのです。
(4)諸宗教に救いはないのか?
 では、教会の外にいる人たちは救われないのでしょうか。仏教やイスラム教を信じている人たちは、神との完全な出会い、神との完全な交わりとしての救いから排除されるのでしょうか。
当然、彼らも救われると思います。ただしその救いは、キリスト教徒であるわたしたちの目から見たときには、イエス・キリストによって全人類にもたらされた救いです。救いに至る道はたくさんあるが、最後はイエス・キリストを通らなければ誰も救われることがない、と表現したらいいかもしれません。完全な意味での救いはイエス・キリストにしかないが、諸宗教もイエス・キリストにつながっている限りでは救いに至る道だということです。
5.まとめ
 カトリック教会は教皇を中心として一致し、全教会はイエス・キリストを唯一の救い主と信じるという点において一致しています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:34-35)というイエスの言葉を重く受け止め、この一致をより一層深いものにしていきたいものだと思います。