入門講座(27) 死刑制度とキリスト教

《今日の福音》マルコ2:23-28
 イエスの弟子たちが、歩きながら他人の畑の麦を摘み取り、手でもみほぐして食べています。どうも行儀の悪い行動ですが、この行動にはきちんと聖書的な根拠があります。申命記23章26節の「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」という規定です。律法は、空腹な旅人や貧しい人などを想定して、他人の畑で麦の穂を摘んでも食べていいと規定しているのです。神様は空腹で苦しんでいる人々に対して深い憐みを示す方だということが、この規定から分かります。
 ところが、ファリサイ派の人々は弟子たちの行動についてイエスに苦情を言います。彼らが穂を摘み取ったのが安息日だったからです。ファリサイ派の人々は、安息日に麦の刈り入れという労働をすることが、モーセ十戒の「安息日を覚えて、これを聖とせよ」(出エジプト記20章8節)という規定に反すると考えたのです。
 これに対して、イエスダビデが家来たちのために律法を破った話(サムエル記上21章)を引用した上で、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」という言葉で答えます。今日から倫理神学を扱いますが、カントは倫理の基本に「人間を手段としてはならない」という命題を置きました。イエスがここで言っているのは、まさにそのことです。人間こそが目的であって、律法は人間が幸せに生きるための手段にすぎないのです。人間が律法のための手段になることは、神の御旨に反すると言えます。

《死刑制度とキリスト教
 今回から4回にわたって、倫理神学と言われる分野で議論されている問題を扱っていきたいと思います。今回は、倫理神学の基礎について簡単に説明した後、死刑制度についてキリスト教がどのような考え方を持っているのかを見ていきます。

0.倫理神学とは何か
 本題に入る前に、そもそも倫理神学とは何なのかについてお話したいと思います。
(1)定義
倫理学というのは文字通り、人間が生きていく道、人間のあるべき姿について議論する学問です。キリスト教徒にとって生きていく道とはイエス・キリストの教えに他なりません。イエスの教えに従って生きていくとき、わたしたちは人間本来の生き方を生き、幸せになれるのです。
 ですが、現代社会においてはイエスの教えに従って生きていこうと思っても判断に迷うような場面がたくさんあります。安楽死、避妊、人工授精、地球環境保護など、イエスの時代にはなかったような新たな現実がわたしたちの目の前に現れてきたからです。
キリスト信者たちが日常生活の中で直面し、当惑するこれらの問題について、聖書や教会の伝統に基づいて一定の指針を与えようと試みる学問が倫理神学だと言えるでしょう。
(2)判断の基準としての「罪」
 倫理神学において判断の基準になるのは、それを行うことが罪になるかどうかということです。では、罪とは何でしょうか。これまでにも何回かお話ししましたが、もう一度確認しておきたいと思います。
①神との関係性の破壊
現代の倫理神学において、罪は「神との関係性の破壊」と定義されます。神に対して申し訳のないことをしてしまったから、もう神に合わせる顔がないというような状態が、神との関係が破壊された状態だと言えるでしょう。原罪を犯したアダムが神の顔を避けて隠れたように、わたしたちは罪を犯すともう神の前に堂々と立つことができなくなるのです。そのような状態にわたしたちを追い込むものが罪だと言えます。
②自分自身・他者・世界との関係性の破壊
 「神との関係性」は、自分自身、他者、世界との関係性とも密接に関係しています。自分に対して合わせる顔がない、他者に対して、世界に対して合わせる顔がないというような行動をとることは、それらとの関係性の破壊であり、それらに対して罪を犯すことです。神は、人間が自分自身、他者、世界と愛の内に調和を保って生きることを望んでおられますから、それらとの関係性の破壊は、神との関係性の破壊に直結していきます。自分自身、他者、世界との関係性を破壊するような行動をとるとき、わたしたちは神との関係性も破壊しているのです。
(3)具体的な判断の仕方
 では、この基準を具体的な事例に当てはめるにはどうしたらいいのでしょうか。神に対して顔向けできなくなるような行動とそうでない行動を見極めるためには、一体どうしたらいいのでしょうか。
 残念ながら、倫理神学者の間でも具体的な判断についてこれだという方法はまだ確立されていないようです。具体的な事例を多面的に見て、総合的に判断するというくらいのことしか言えないように思います。本人の気持ち、周りの人の気持ち、社会に与える影響などを一つ一つ確かめ、これなら大丈夫だという道を探していくしかないということです。

1.死刑制度をめぐる世界の動き
 死刑制度を支持することが罪なのかどうかを考える前提として、まず死刑制度について世界的にどのような判断が下されているかを見てみたいと思います。
(1)存置国と廃止国の数
 法律上および「事実上の廃止国」(死刑の法律は残っているが何十年も死刑執行がない国)は世界に138あります。それに対して、死刑制度があり、死刑執行が行われている国は36です。世界的には、死刑制度がある国の方が少ないのです。いわゆる「先進国」で死刑制度を全面的に残しているのは、なんと日本だけです。
(2)国連とヨーロッパの動き
 国連は、1989年国際人権B規約第二選択議定書(死刑廃止条約)を締結し、死刑廃止を世界に呼びかけています。この動きを支えているのがEU諸国です。EUは、加盟の条件に死刑廃止を要求するほど死刑制度に対して厳しい態度をとっています。このため、EU加盟を希望する国々は死刑の廃止に踏み切っていきました。
(3)アメリカの動き
 アメリカでは州ごとに法律が異なり、死刑制度の存廃も州ごとに決定されます。現在、14の州が死刑制度を廃止しています。最後に廃止したのは、ニュージャージー州です。2007年のことでした。
(4)中国の動き
 死刑存置国の中で、最も死刑を活発に行っているのが中国です。アムネスティ・インターナショナルの調べでは、2007年に中国では470人の死刑が執行されました。全世界での執行人数が1252人ですから、中国だけで世界の3分の1を占めていることになります。ちなみに、アメリカは同年に42人、日本は9人を処刑しました。中国での死刑執行数は、実際には千人を超えているとの推測もあります。最近中国では、死刑囚からの臓器移植の是非が社会問題化しているそうです。

2.考えるべき点
 では、死刑制度の是非を考える場合に、具体的にどのような事情を考慮すればいいのでしょうか。4つほどの論争点をご紹介したいと思います。
(1)被害者感情
①死刑賛成派の意見…身内を殺された遺族が犯人に対して復讐したいと思うのは当然のことであり、神の御旨にも反することがない。殺された人の無念を、一体誰が晴らすのか。
②死刑反対派の意見…犯人を殺しても遺族の苦しみは消えない。犯人を殺すことも殺人であり、神は殺人を望まない。もし被害者の無念を晴らすために死刑があるならば、一人でも人を殺した犯人はすべて死刑にするべきだが、実際にはそうなっていない。一人殺せば死刑という原則に立てば、日本では毎年千数百人を処刑することになるが、それでいいのか。
(2)民意
①死刑賛成派の意見…国民の9割近くが死刑制度を支持している以上、正しいこととして認めるべき。諸外国が死刑廃止に踏み切ったとしても、日本には日本の事情があるのだから気にする必要はない。
②死刑反対派の意見…人間の基本的な尊厳にかかわる事柄を、多数決で決めるべきでない。
(3)犯罪抑止力
①死刑賛成派の意見…死刑があるからこそ人間は凶悪犯罪を思いとどまるのであって、死刑がなくなれば凶悪犯罪が増えるに決まっている。死刑があれば、犯罪の数は少なくなる。
②死刑反対派の意見…これまでに死刑を廃止した国では、死刑を廃止する前と後で犯罪の件数に大きな変化はなかった。アメリカでも、死刑がある州だからといって犯罪が少ないとは限らない。日本では、死刑制度があるにも関わらず凶悪犯罪が跡を絶たない。
(4)冤罪の可能性
①死刑賛成派の意見…誤った裁判で死刑判決を受ける人は、いたとしても極めて少数だから無視していい。懲役刑の場合でも、誤った裁判がその人の人生を狂わせてしまうことは同じ。間違いで死ぬ人がいるからといって有用な制度を廃止するのは、交通事故で死ぬ人がいるからといって車の使用を禁止するようなもの。
②死刑反対派の意見…冤罪で殺される人が一人でもいる可能性があるなら、死刑制度は廃止すべき。殺してしまったら取り返しがつかない。
(5)その他
 被害者への援助を置き去りにして死刑囚の人権について論じることへの批判、死刑の代わりに終身刑を導入した場合、国民が凶悪犯の安穏な生活のためにお金を払うことになるがそれでよいのかという疑問など、死刑制度について考えるべきことはたくさんあります。

3.カトリック教会の判断 では、死刑制度についてカトリック教会はどのような判断を下しているのでしょうか。死刑制度を存置することは、神の御旨にかなうのでしょうか、かなわないのでしょうか。
(1)『カトリック教会のカテキズム』
 1997年、ヨハネ・パウロ2世カトリック教会の「信仰の遺産」の集大成として『カトリック教会のカテキズム』を公布しました。『カトリック教会のカテキズム』は、死刑制度について次のように述べています。
「教会の伝統的な教えによれば、違反者の身元や責任が完全に確認された場合、それが不当な侵犯者から効果的に人命を守ることが可能な唯一の手段であるならば、死刑を科すことも排除されていません。」(2267番)
 伝統的に正当防衛のための殺人を容認してきたカトリック教会は、社会全体の正当防衛として死刑制度をも容認する立場に立ってきました。ただし、『カトリック教会のカテキズム』は、現代においては死刑制度が社会防衛のための「唯一可能な手段」として認められることは「皆無ではないにしても、非常にまれなことになりました」とも述べ、刑罰制度が発達した先進国においては死刑制度を容認できないことを示唆しています。
(2)回勅『いのちの福音』
 『カトリック教会のカテキズム』が使った、死刑制度が容認される場合が「皆無ではないにしても、非常にまれなことになりました」という言葉は、実はヨハネ・パウロ2世の回勅『いのちの福音』から引用されたものです。ヨハネ・パウロ2世はこの回勅(教皇様の公式文書)の中で、「絶対的に必要な場合、換言すれば他の方法では社会を守ることができない場合を除いては、犯罪者を死刑にする極端な手段に訴えるべきではありません」(56番)とも述べています。これを全体的に読むと、死刑制度はほとんどの国でもはや必要がないということになります。
 ヨハネ・パウロ2世は、1998年のクリスマスメッセージ、1999年12月12日の「お告げの祈り」の場でのメッセージなどにおいてこの趣旨を明確に表現し、全世界に死刑の廃止を訴えました。
(3)日本カトリック司教団メッセージ『いのちへのまなざし』
 日本のカトリック司教団は、2001年に発表した司教団メッセージ『いのちへのまなざし』において、日本が死刑制度廃止に向けて動き出すことを希望しました。

4.聖書の教え
 人間は神の似姿であって、すべての人間の命は生まれながらに尊いというのが聖書の基本的な生命観です。イエスは、そのことを証するために十字架に付けられたとさえ言えます。
 ローマ人への手紙12章19節でパウロは、「復讐せず、神の怒りにまかせなさい」と述べています。申命記で神御自身が「わたしが報復し、報いをする」(32:35)とおっしゃっているからです。死刑制度を考える上でこの言葉は大きな指針になると思われます。人間の生命を奪うかどうかの判断は、本来神に委ねるべき事柄だと考えられるからです。
 復讐として相手を殺すということは、相手を無価値なものと決め付け、相手の存在を完全に否定することです。であるとすれば、復讐としての死刑はイエスの教えや生き方と矛盾するものだと言えるでしょう。イエスは、相手がどのような人間であっても「神の子」としてその存在を大切にするようにと求めているからです。
 
5.まとめ
 裁判制度において懲役刑は、犯人の存在価値を認めた上で、犯人の更生を願って課されるものです。単なる応報刑ではありません。ですが、死刑は犯人の全存在を否定し、犯人を抹殺することで問題を解決しようとします。両者の間には、非常に大きな質の隔たりがあると言えるでしょう。懲役刑には犯人の生命に対する尊敬がありますが、死刑は犯人の生命の価値を否定します。懲役刑であれば、犯人は悔い改めて神の御元に立ち返る可能性がありますが、死刑であれば犯人はその可能性を奪われてしまいます。
 死刑がなければ社会が守れないということは、今日多くの国々が死刑制度なしで社会を維持している現実を考慮すれば、もはや誰にも言えないでしょう。今日のような状況が続く限り、死刑制度を維持し続けることは神の御旨に反することだと思います。

《参考文献》
・Overberg, Kenneth, “Conscience in Conflict” ,ST.ANTHONY MESSENGER PRESS, 1989.
・Curran, Charles, “The Catholic Moral Tradition”, GEORGETOWN UNIVERSITY PRESS, 1999.
・『カトリック教会のカテキズム』、カトリック中央協議会、2002年。
ヨハネ・パウロ2世、『いのちの福音』、カトリック中央協議会、1996年。
・日本カトリック司教団、『いのちへのまなざし』、カトリック中央協議会、2001年。