バイブル・エッセイ(818)永遠の命の言葉


永遠の命の言葉
 弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:60-69)
「あなたたちも離れて行きたいか」と問うイエスに、十二使徒たちは、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」と答えました。あなただけが「永遠の命の言葉」を持っていると、自分たちはよく知っている。あなたを離れては、生きてゆくことができないということでしょう。
 十二使徒たちは、誰もがイエスとの出会いを通して苦しみや絶望の闇から救い出され、喜びと希望に満ちた新しい命に生まれ変わった人たちでした。魚をとっていた漁師のサイモンは、「人間をとる漁師」ペトロとなり、人々から税金を集めていたペトロは、神の言葉を人々に惜しみなく配る使徒ペトロとなったのです。みな、自分たちを救い出し、いまの自分にしてくれたイエスに心の底から感謝していたに違いありません。
 イエスが持っている「永遠の命の言葉」とは、わたしたちを苦しみや絶望の闇から解放するイエスの教えであり、愛に満たされたイエスの存在そのものだと言っていいでしょう。この言葉に従い、神さまの愛に満たされて生きるとき、わたしたちは自分の本当にあるべき姿に生まれ変わり、永遠に消えることのない喜びに満たされるのです。逆に言えば、イエスを離れては、決して幸せになることができないということでもあります。弟子たちは、自分自身の体験に基づいて、そのことをよく知っていました。
 わたし自身もかつて、自分の人生に迷い、どちらに進んでいいのかも分からないような闇の中にいたことがありました。地上での名誉や栄光、財産などに心を惹かれ、どの道が自分にとって一番得なのかと考えるうちに、すっかり迷子になってしまったのです。そんな迷いから抜け出す突破口を探して、わたしはインドに出かけ、マザー・テレサと出会いました。マザーを通してイエスと出会い、人生で一番大切なのは、自分のことを忘れて誰かを愛することだ。損得勘定を捨て、自分の心が命じるままに、神の愛を生きることだと教わったのです。その教えに従い、イエスの愛に満たされて生きる道を選んだことで、わたしは闇から解放されました。そのことを思い出すたびに、わたしはイエスだけが「永遠の命の言葉」を持っているということを痛感します。
 皆さんも、それぞれ同じような体験があることでしょう。会社や家庭でのトラブルに疲れ果て、生きる希望を失っていたときに、教会の人たちとの出会いを通してイエスに導かれ、生きる希望を取り戻した。自分の人生に意味があることに気づき、新しい自分に生まれ変わった。そんな体験です。ミサの中で、わたしたちも弟子たちと同じように、「あなたを置いて誰のところに行きましょう」と祈ります。それぞれに、自分自身が闇の中から救い出された体験を思い出し、イエスのもとを離れてはどこにも自分の幸せがないという確信を込めて、この言葉を祈りましょう。