バイブル・エッセイ(1044)十字架を背負う

十字架を背負う

 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:25-33)

 「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」とイエスは言います。これはまた、ちょっとイエスらしくない言葉です。「互いに愛し合いなさい」というイエスの教えと、どのように結びつくのでしょう。

 次に続く「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」という言葉が、この謎を解く手掛かりになると思います。十字架を背負うとは、神から与えられた自分の使命を果たす。その使命のために自分の命をかけるということですから、もし家族や自分自身への執着が使命の邪魔をするなら、その執着を捨てなさい、という意味でイエスは「憎め」と言ったのでしょう。イエスはこの箇所の最後で、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」とも言っています。家族や自分、すべての持ち物に対する執着を手放さなければ、十字架を背負うことはできない。イエスの弟子として生きることはできない。イエスはきっと、そう言いたかったのでしょう。

 持ち物や家族、あるいは自分自身の命への執着は、わたしたちの判断を誤らせます。この財産を、地位を、名誉を手放したくないと思って神さまのみ旨を無視したり、自分の都合のいいように勝手に解釈したり、そのようなことが起こりがちなのです。その結果、わたしたちは歩むべき道を踏み外し、自分で自分の首を絞めることになります。知恵の書に記されている通り、「死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確か」なのです。

 では、どうしたら執着を手放すことができるでしょう。そのために必要なのは、神さまへの信頼だと思います。イエスは、神のみ旨を信頼し、十字架上で自分の命を神の手に委ねました。それと同じように、神に信頼して自分にとって大切なもの、持ち物や家族、自分の命を神さまの手に委ねるのです。「わたしは浅はかな人間なので、これらのものをどうしたらいいのかよくわかりません。あなたの手に委ねますから、あなたが一番よいと思われるように使ってください」と祈って神の手にすべてを委ねるとき、わたしたちの心は執着から解放され、すべてがよく見えるようになります。執着を手放すとき、わたしたちの心は知恵の霊で満たされるといってもよいでしょう。知恵の書は、「あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれが御旨を知ることができたでしょうか」と記していますが、神は、神を信頼してすべてを委ねる人だけに「聖なる霊」、知恵の霊を送り、「み旨」を示してくださるのです。

 今日読まれた箇所は、弟子の心得を諭す言葉だと考えたらよいでしょう。何より大切なのは、「自分の十字架を背負う」ということです。神さまから自分に与えられた使命を何より大切に思い、その使命を精いっぱいに果たす。十字架を通して、神さまの手に自分のすべてを委ねる。このことさえ忘れなければ、どんな誘惑や試練がやってきても、わたしたちは道を踏み外すことなく、互いに愛し合って生きられるでしょう。日々、自分の十字架を背負いながらイエスのあとについてゆくことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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