バイブル・エッセイ(946)天から響く愛の声

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天から響く愛の声

(そのとき、洗礼者ヨハネは)こう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(マルコ1:7-11)

 洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエスに、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天からの声が語りかけたとマルコ福音書は伝えています。この声を聞いたとき、イエスの心はどれほど大きな喜びで満たされたことでしょう。自分のすべてをあるがままに受け入れられ、父なる神の愛で心を満たされて新しい人生を始める。これこそ、洗礼の最も深い意味だと言っていいでしょう。

 このときイエスは30歳だったと伝えられています。平均寿命が50歳くらいの時代ですから、今の感覚でいう30歳とはずいぶん違い、もうかなりよい歳だったと言っていいでしょう。青年というよりは、普通ならもうとっくに結婚して一家を構えている壮年という感じです。なぜイエスは、この年齢になって大工の仕事を辞め、ヨハネのもとに向かったのでしょうか。

 まったくの想像ですが、おそらくイエスの心にも迷いがあったのだろうと思います。それまでイエスは、ナザレという山奥の小さな町に住む大工でした。父ヨセフを亡くしてからは、こつこつと働いて母を養い、結婚もせずに30という歳を迎えていました。まったく目立たない、地味な人生を歩んできたと言っていいでしょう。イエスの心に、「わたしの人生は、これで本当によかったのか」という思いがあったとしても不思議ではありません。

 イエスがヨハネのもとで洗礼を受けたのは、恐らく、神の前に跪き、神御自身に「わたしの人生は、これで本当によかったのでしょうか」と尋ねてみたかったからではないかとわたしは思います。「小さな町の大工として、母のため、町のみんなのためにコツコツ働く地味な人生。結婚もしないまま30歳を迎えたわたしの人生は、果してこれでよかったのでしょうか」、そう問いかけるイエスに、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から響きました。つまり、「あなたの人生は決して間違っていない。あなたは本当によくやった。それでこそ我が子だ」ということです。イエスの喜びは、一体どれほどだったでしょう。この喜びの中で、救い主としての新しい人生の道が示され、同時に、その道を歩むための力が与えられたのです。あるがままの自分を受け入れられた喜びの中で、人生の新しい一歩を踏み出す。それこそ、イエスの洗礼の体験だったと言っていいでしょう。

 イエスの体験を想像して語りましたが、実際にはこれはわたし自身の体験でもあります。わたしは今年50歳になりますが、そのうちの23年間を修道者として生きてきました。気がつけばもういい歳で、孫がいてもおかしくない年齢です。それにもかかわらず、修道者として、神父としてどうなのかと言えば、あちこち問題だらけという感じがします。「わたしの人生は、本当にこれでよかったのだろうか」という問いが湧き上がってくることもないわけではありません。そんなとき、十字架の前でひざまずいて祈ると、必ずどこかから「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という声が聞こえてくるのです。

 イエスの洗礼のときに響いたこの声は、キリストを信じるすべての人の上にいまも響き続けています。人生に迷いを感じたときには、いつもこの声に耳を傾けたいと思います。あるがままのわたしたちをゆるし、受け入れてくださる神の愛を信じ、聖霊の力に満たされて日々を生きられるよう心を合わせてお祈りしましょう。

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