バイブル・エッセイ(891)同じ人間として

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同じ人間として

 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。(マタイ3:13-17)

 洗礼を受けるため罪人たちと共に列に並んだイエスに、ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と言いました。これはもっともな疑問だと思います。イエスは神の子、救い主であり、イエスご自身には罪などまったくなかったのです。それにもかかわらず、なぜイエスは洗礼の列にならんだのでしょうか。

 あるお医者さんから、こんな話を聞いたことがあります。このお医者さんは、とても優秀な外科医で、たくさんの人たちを癌から救ってきた方でした。ところが、40代後半にして、自分自身が癌になってしまったのです。早期の発見だったので命に別状はありませんでしたが、彼はこの体験を通して、自分の根本的な思い違いに気づいたと言います。自分はこれまで「自分は優れた医者、この人はかわいそうな患者さん。だから助けてあげる」という態度で患者さんと向かい合ってきた。それでたくさんの人たちを助けてきたし、感謝されたが、当然のことをしたとしか思ってこなかった。それが、今度のことで、自分もいつ病気になるかわからない弱い人間であり、自分と患者さんの間に壁はないことに気づいた。今では「この人もわたしも、同じ弱い人間。苦しんでいるなら、放って置くことはできない」という気持ちで患者さんに接している。患者さんを助け、感謝されたときには、こんなわたしが誰かを救うことができたことに心から感謝するようになったというのです。自分自身の病気の体験を通して、彼がより親身に患者さんと関わる医師に成長したことは間違いありません。

 イエスが罪びとの列に並んだこと、さらにその後、荒れ野で多くの誘惑を受けたのも、きっと似たようなことだったのだと思います。イエスは、罪人たちの列に並ぶことで、自分もたくさんの弱さを抱えた人間の一人であることをしっかりと受け止めたのです。イエスは、「わたしは神の子だ。なんで罪人の列に並ぶ必要がある。お前がわたしから洗礼を受けろ」とか「わたしがお前たちを癒してやる」というような態度ではなく、「わたしも弱い人間の一人として、罪人の列に並ばせてほしい。洗礼の恵みを受けたい」という態度で生きることを選んだと言ってもいいでしょう。イエスは、上から目線で人を癒すのではなく、「同じ弱い人間同士。あなたが苦しんでいれば、放って置くことはできない」という思いでわたしたちを癒す、「魂の医師」になることを望まれたのです。

 そんなイエスに、天から「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という声が響きました。神がイエスを人間として地上に送り出したのは、まさに「同じ人間として」わたしたちに寄り添い、わたしたちを愛するためだったのです。わたしたちは、同じ人間でありながら、つい相手を見下し「自分は健全。あの人は病人」、「自分は善人。あの人は罪人」というような態度で相手に接してしまいがちです。イエスの謙遜にならい、どんなときでも「たくさんの弱さを抱えた同じ人間同士」という姿勢を忘れずに人と接することができるよう祈りましょう。