バイブル・エッセイ(1019)十字架につける

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十字架につける

 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、神を賛美して言った。「本当に、この人は正しい人だった」、見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。(ルカ23:44-49)

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」、それが十字架上でのイエスの最後の言葉だったとルカ福音書は伝えています。一日一日を神の手に委ね、一年一年を神の手に委ねて生きてきた人生の最後に、イエスは自分の生涯そのものを神の手に委ねたのです。この徹底した委ねのゆえに、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」とパウロは言います。神の愛を信じてすべてを委ねきったとき、イエスは神の愛と完全に結ばれ、永遠の命を生きる者となったのです。
 自分のすべてを神の手に委ねるということを、イエスにならって「自分を十字架につける」と表現することがあります。具体的にはどういうことでしょう。何を、どうやって十字架につければよいのでしょう。
 十字架につけるべきものの一つは、自分の思惑でしょう。「ここに行きたい」「あれをしたい」といった自分の思いを棚上げし、「神さま、わたしはこのようなことを願っていますが、それはしょせんわたしの愚かな考えに過ぎません。どうかあなたの願いが行われますように。あなたの願いを、わたしが見つけ出すことができますように」と祈る。それが、自分を十字架につけるということなのです。
 実際、わたしたちが願うことは、たとえ実現しても幸せになれない、見当外れなものであることが多いようです。高望みして、自分の力で担いきれない役職や地位を願ったり、自分には合わない相手と結ばれることを望んだりして、あとから、「あんなこと願うのではなかった」と後悔することも多いのです。そんな自分の限界をわきまえ、謙虚な心で神のみ旨を探し求める。それが、自分を十字架につけることだと言ってよいでしょう。
 将来への不安や恐れを十字架につけるということもあります。「ああなったらどうしよう」「こうなったら困る」といった思いを手放し、「神さま、たとえわたしの思った通りにならなくても、あなたがなさることなら、それがわたしにとって一番よいことです。わたしの将来を、すべてあなたの手に委ねます」と祈る。考えてもどうしようもないことはすべて神の手に委ね、自分がいますべきことに集中する。それが、自分を十字架につけるということなのです。
 怒りや憎しみも十字架につけるべきでしょう。「あんな奴、絶対にゆるせない」「必ず復讐してやる」といった思いを手放し、「わたしは相手のことがよくわかっていないし、そもそもなぜ自分がこんなに腹を立てているのかもよくわかりません。きっと相手も、自分が何をしているかわかっていないのでしょう。どうか、あなたの裁きが行われ、共に生きていく道が示されますように」と祈る。それが、自分を十字架につけるということなのです。実際、イエス自身も十字架上で、自分を殺そうとする人たちのために、「この人たちは自分が何をしているのか知らないのです」と祈っています。
 自分を十字架につけるとき、わたしたちの心は喜びと安らぎで満たされます。わたしたちの救いは、この十字架にこそあるのです。自分に死ぬことによってのみ、わたしたちは永遠の命に至ることができる。イエスが生涯をもって示してくださったこの真理をあらためて心に刻み、生きていくことができるよう祈りましょう。

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