バイブル・エッセイ(506)三位一体の希望


三位一体の希望
 わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ5:1-5)
「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。希望はわたしたちを欺くことがない」とパウロは言います。イエス・キリストによって示された父なる神の愛が、聖霊によってわたしたちに注がれている限り、わたしたちはどんな苦しみの中にあっても希望を見出すことができるのです。神の愛がわたしたちを裏切ることがない以上、わたしたちの希望が裏切られることもありません。
 パウロの言葉は、自分自身の体験に基づくものに間違いないでしょう。苦しみの中で、わたしたちの心に忍耐が生まれます。忍耐とは、自分の思った通りにならない現実を受け入れるということです。人間の無力さや愚かさ、みじめさをかみしめながら、神にすべてを委ねて苦しみを乗り越えてゆく。それが忍耐です。忍耐の中で、わたしたちの心は磨かれてゆきます。わたしたちの心に、謙そんが深く刻み込まれてゆくのです。練達とは、謙そんの徳をしっかり身に着けてゆくことと考えたらいいと思います。謙遜な心は、ものごとが自分の思った通りにならなかったとしても、決して希望を失うことがありません。謙遜な心は、自分が何もできないけれど、神様には何でもできる。自分が何も知らないけれど、神様はすべてを知っている。どんな苦しみの中にあっても、そう信じて、神にすべてを委ね続けることができるのです。忍耐の中で、あらゆる苦しみを乗り越える強さが与えられると言ってもいいでしょう。
 「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」とパウロは言います。聖霊は、どんなときにもわたしたちの心をイエス・キリストの十字架に向けさせ、父なる神の愛へと導いて下さる方です。十字架上でのイエスの苦しみは、父なる神の愛の中で大きな喜びに変えられました。イエスのみじめさは、父なる神の手の中で輝く栄光に変えられたのです。どんな苦しみも、神の愛の中で喜びに変わる。どんなみじめさも、神の手の中で栄光に変えられる。聖霊は、わたしたちの目を十字架に向けさせ、そのことを思い出させてくれるのです。そこに、わたしたちの希望があります。わたしたちの希望は、父なる神から与えられ、イエス・キリストによって示され、聖霊によって支えられる、三位一体の希望なのです。
 この希望は、決してわたしたちを裏切ることがありません。なぜなら、神はわたしたちを決して見捨てることがないからです。神の愛がわたしたちを裏切ることがない以上、希望も決してわたしたちを裏切りません。三位一体の希望を信じ、あらゆる困難を乗り越えてゆくための力を願い求めたいと思います。