バイブル・エッセイ(800)愛の証


愛の証
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:24-29)
 イエスの復活を疑い、なかなか信じようとしないトマスの前に、イエスご自身が現れる場面です。この場面を思い浮かべるとき特に印象に残るのは、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言ってイエスがトマスをたしなめる様子ではないでしょうか。傷ついた手とわき腹を見せたということには、単に十字架で死んだイエスと自分が同一人物であるということを示す以上の意味があるように思います。手とわき腹を見せながらトマスに語りかけるイエスの心の中には、「十字架上で死ぬほどの愛を示したのに、まだわたしの愛が信じられないのか。もっとしるしが欲しいのか」という思いもあったのではないでしょうか。いったいどれだけしるしを見せれば信じられるのか、「見ないで信じる人は、幸いである」。イエスは、そう言っているように思えます。
 しるしを見なければ信じられないというのは、人間の限界だといっていいでしょう。何か証拠を見なければ、わたしたちは相手の愛を信じることができないのです。幼稚園の子どもたちのあいだでも、そのようなことがあります。先生の愛情を確かめるために、わざと悪いことをしたり、先生に反抗したりする子どもがいるのです。いわゆる「試し行動」というもので、「こんなことをしたぼくでもゆるせるの?」「ぼくのことを本当に愛しているの?」という子どもたちからの問いが込められた行動です。そのようなことをしながら、子どもたちは少しずつ自分が先生から愛されていることを信じるようになってゆきます。そのうちに、「試し行動」はやみ、先生の愛にこたえて行動するよい子になってゆくのです。このような「試し行動」は大人になっても続きます。誰かの愛を確かめたいとき、わたしたちはついつい「試し行動」をしてしまうのです。
 福音書を読むと、人々がイエスに向かって「試し行動」をする場面がたくさんあります。「もし神の子なら、この人の病を癒してください」、「お腹を空かせたこの人たち全員に食べさせることは、さすがにあなたでもできないでしょう」というように、人々はイエスに次から次へとしるしを求めます。イエスは、そのすべてにこたえ、神の愛を証してゆくのです。そのような「試し行動」の究極が、イエスを十字架につけることだったのではないでしょうか。「こんなことをされてまで、わたしたちをゆるせるのか。神の子ならゆるしてみろ」という人間たちの試しに、イエスは見事にこたえます。これほどの愛を見せられて信じないなら、いったい何を見たら信じるのでしょう。
「見ないのに信じる人は、幸いである」というイエスの言葉は、しるしなど必要ないということではありません。神様は、わたしたちにもう十分すぎるほどのしるしを与えてくださったのです。それでも信じられないわたしたちへの嘆きの言葉が、「見ないのに信じる人は、幸いである」なのです。信じられなくなったときには、イエスの十字架の前に立ち、手の傷、わき腹の傷を見ましょう。そこに、最高の愛のしるしがあります。