バイブル・エッセイ(1103)敵を愛する

敵を愛する

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:15-20)

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」とイエスはいいます。「兄弟をゆるしなさい」だけではなく、さらに踏み込んで、「その人を悪の道から正しい道に立ち返らせなさい」というのです。これは、大変な教えだと思います。わたしたちには、相手をゆるすだけでなく、相手を正しい道に立ち返らせる責任があるのです。
 相手がわたしたちに対して悪いことをしている場合、まず相手をゆるすことだけでも難しいでしょう。相手が自分のものを盗ったとか、仲間はずれにした、根も葉もない噂話を流したというような場合、怒りを抑えるのがやっとで、相手をゆるすというところまでなかなかいきません。もしゆるせるとすれば、イエスが十字架上で自分を殺そうとする兵士たちのために祈った言葉、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)という言葉を、イエスと共に唱えられたときだけだろうと思います。「この人は道を踏み外し、自分でも自分が何をしているかわからなくなっている。気の毒なことだ」、そう思えるほど相手を愛したときにこそ、わたしたちは相手を心からゆるすことができるのです。敵を愛したときにだけ、わたしたちは敵をゆるすことができるといってもいいでしょう。
 そのように思えたとき、わたしたちの心に、「あの人が悪いことをしていれば、神さまは悲しむに違いない。わたしも神さまのもとでの兄弟姉妹として、この人が悪に沈んでいくのを放っておけない」という思いが湧き上がります。その思いの実践が、今日、イエスがいっていること、つまり、「行って二人だけのところで忠告しなさい」ということなのです。「二人だけのところで反論しなさい」とか「復讐しなさい」というのではありません。「忠告しなさい」というのは、相手のことを心から思って、相手が正しい道に戻れるよう導くこと。場合によっては、相手のことを思って涙を流し、何時間でも相手と話しあうということなのです。それでうまくいかなければ、自分にどこか欠けているところがあるのかもしれません。それを補うために、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」とイエスはいいます。それでも相手が気づかないなら、「教会に申し出なさい」とイエスはいいます。なんとしてでも、相手を正しい道に連れ戻しなさい。それが、神の御旨であり、神の子の使命だということでしょう。
 実践するのは、とても難しいことだと思います。しかし、もしわたしたちが敵を憎み続けたり、「あんな人はどうなってもいい」とその人を見捨てたりすれば、わたしたちの心に痛みが生まれるのも事実です。「自分にできることがあったのに、あの人を見捨ててしまった」という心の痛みこそ、わたしたちが神の子としての使命を果たさなかったことの罰といってよいでしょう。自分の敵さえゆるせるほどの愛を生きられるよう、神さまの助けと恵みを願って祈りましょう。

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