バイブル・エッセー(998)心の大掃除

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心の大掃除

 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(ルカ3:1-6)

 イエスの誕生に先立ち、洗礼者ヨハネが「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とルカ福音書は伝えています。イエスが神の愛を人々に伝える前に、その愛を受け止めるのにふさわしい心、悔い改めた清らかな心を人々の中に準備する。それが洗礼者ヨハネの役割だったと言ってよいでしょう

 洗礼者ヨハネが果たした役割を、いま教会では、「ゆるしの秘跡」が果たしています。わたしたちは待降節のあいだに「ゆるしの秘跡」を受け、心を清らかにしてイエスの到来を待つのです。ちょうど、お客さんを迎えるために、部屋を片付け、きれいに掃除するのに似ているかもしれません。日々の生活の中で心の中に溜め込んでしまったお金や世間体などへの執着を手放し、人間関係で生まれた感情のもつれを整えて、部屋の中をすっきりときれいにするのです。

 この掃除は、徹底的にやるのに越したことがありません。がらくたや汚れた物は隅っこに隠して覆いをかけておき、「まあ、このくらいで大丈夫だろう」と手を抜くということでは、イエスさまをお迎えしても、心の隅々まで喜びで満たすことはできないからです。イエスさまの目を欺き、「隠しているものが見つかったらどうしよう」とビクビクしていては、クリスマスを心の底から楽しむことはできないのです。まだしがみついているものがあるなら、この機会に徹底的に手放す。まだゆるせない相手がいるなら、この機会に徹底的にゆるすのがよいでしょう。執着を手放し、怒りや憎しみから解放されて心が空っぽになればなるほど、わたしたちの心は大きな喜びで満たされるのです。

 でも、これまでも毎年、同じように「ゆるしの秘跡」を受けてきたのに、同じように間違いを繰り返してしまった。だから、掃除しても無駄だと思う人もいるかもしれません。しかし、それはまるで、「掃除してもまたどうせ散らかるんだから、初めから掃除しません」と言っているようなものです。人間である以上、生活していればどうしても何かへの執着が生まれてくるし、人間関係のもつれも抱え込んでしまうでしょう。それは、ある意味でやむをえないことです。人間である限り、わたしたちは完全ではありえないのです。そのような自分の弱さを認めて心をすみずみまで丁寧に掃き清め、イエスさまのために汚れのない謙虚な心を準備する。そこに、「ゆるしの秘跡」の意味があります。

 「曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」とイザヤは預言しましたが、「ゆるしの秘跡」を受けることによって、わたしたちの人生はまっすぐに整えられ、わたしたちの心のでこぼこは平らにされます。間違った方向に引き寄せられていく心は、進むべき正しい方向を見つけ出し、傲慢や卑屈さによってでこぼこになった心は、神の愛の中で穏やかに整えられてゆくのです。心を隅々まできれいに掃除し、心のすみずみまで喜びで満たされたクリスマスを迎えられるよう、皆で心を合わせてお祈りしましょう。

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