バイブル・エッセイ(1117)イエスを迎える

イエスを迎える

 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。(ヨハ1:6-8、19-28)

「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる」と洗礼者ヨハネが人々に告げる箇所が読まれました。洗礼者ヨハネの呼びかけに応じて悔い改めるとき、キリストがやって来る。そのように理解してよいでしょう。悔い改めて心を整え、行いを変えるとき、わたしたちの心にキリストがやって来るのです。
 これは毎年、待降節が来るたびに議論になることなのですが、「イエス・キリストは2000年前に生まれ、いまもわたしたちと共にいてくださるのに、なぜこの時期だけ、また誕生を待つ必要があるのか」という論点があります。確かに、待降節のあいだもイエスはわたしたちと一緒にいてくださるはずなので、「待つ」のはおかしいという言い分には一理あるようです。ですが、わたしたちの心には、本当にいつもイエスがおられるでしょうか。忙しい毎日の中で、イエスを心の中から追い出し、自分のことばかり考えていないでしょうか。わたし自身はそういうことが多いので、「待つ」というのは、普段、心から追い出してしまっているイエスを、もう一度お迎えするために心を整える。行いを改めるという意味だと思っています。洗礼者ヨハネが告げたように、悔い改めて心を整え、行いを変えるとき、わたしたちの心に再びイエスが誕生するのです。悔い改めて心を整え、行いを変えたとき、わたしたちの心を満たす喜び。その喜びの中にイエスがいるといってもいいでしょう。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」とパウロは書いています。悔い改めて喜びに満たされるため、イエスを心にお迎えするために必要なのは、祈ること、そして感謝することだといってよいでしょう。たとえば、いま誰かに腹を立てているなら、「神さま、わたしはいま、あの人に腹を立てています」と祈りの中で打ち明けることから始めたらよいでしょう。神さまはきっと、あなたの悔しい気持ち、つらい気持ちを受け止めてくださるに違いありません。神さまのやさしさに包まれるとき、腹立たしい気持ちは消え、相手へのいたわりが生まれます。「あんなことをいってしまったが、これまであの人にはとてもお世話になってきた。あの人も神さまが与えてくださった、かけがえのない友だち。今度はやさしい言葉をかけてあげよう」と思えるようになるのです。そして、実際にそれを行動に移すとき、こだわりを捨てて仲直りするとき、わたしたちの心を大きな喜びが満たします。その喜びの中にイエスがおられるのです。
 まずは、祈ることから始めましょう。「神さま、いまわたしはこう思っています」と素直に打ち明け、神さまの愛に身を委ねるのです。神さまの愛の中で自分が置かれた状況を見つめ直すとき、謙虚な心ですべてと向かい合うとき、いま自分が何をすべきかが示されるでしょう。それを実行に移すとき、わたしたちの心にイエスが生まれます。祈りと感謝の中でイエスをお迎えすることができるよう、心を合わせて神さまにお願いしましょう。

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