バイブル・エッセイ(977)「しばらく休むがよい」

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「しばらく休むがよい」

 使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。(マルコ6:30-34)

 イエスは「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」と福音書は伝えています。イエスの愛情深さに心打たれる場面ではありますが、わたしはちょっと弟子たちが心配になります。弟子たちは、食事をする間もないくらい働いて疲れ果てているはずなのです。大丈夫なのでしょうか。

 疲れ果てて休みたいのだけれど、次から次に仕事、それも子育てや介護、教会の司牧など、休みたくても休めない仕事があってどうにもならない。そんな状況は、わたしたちの日常生活の中にもあるでしょう。「あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われても、「そんなの無理です」という状況は、どうしても出てきてしまうのです。そんなとき、一つ支えになるのは、たとえ実際に休めなかったとしても、そのように声をかけてくれる人の存在です。自分が大忙しで働き、疲れ切っていることに気づいてくれた人がいる。自分のことをいたわってくれる人がいる。その事実が、頑張るための力になるのです。

 誰か愚痴を聞いてくれる人がいるだけでもずいぶん違います。話してもどうにもならないとわかっていても、話したところで「本当に困りましたね。でも、できるだけ体に気をつけて、休む時間をとるようにしてください」というような結論以外出てこないとしても、誰かが自分の苦しい状況をわかってくれているという事実は、わたしたちを支えてくれます。その人たちが注いでくれる慈しみ、愛が、わたしたちの頑張る力になると言ってよいでしょう。

 もし誰もわかってくれる人がいなかったとしても、イエスは必ずわたしたちに、「しばらく休むがよい」と言ってくださいます。わたしたちが疲れ果てていることを知り、わたしたちの苦しみに寄り添ってくださるのです。疲れ果ててベッドに入る前に、祈りの中でイエスのその呼びかけを聞くことができれば、きっと明日も頑張ろうという力が湧き上がってくるでしょう。

 イエスは、わたしたちだけを働かせるわけではありません。ご自分も疲れていたはずなのに、率先して群衆に向かって話し始めたのです。その事実も、わたしたちを力づけてくれます。自分を犠牲にしてまで人々に奉仕するイエスの姿は、弟子たちの心に、「わたしたちも苦しんでいる人たちのために何かせずにいられない」という思いを呼び起こしたに違いないのです。もちろん、愛があっても疲れは消えませんが、愛には、絶望的な疲れを、心地よい疲労に変える力があるように思います。愛は、疲れ切ったわたしたちの心に希望の光をともしてくれるのです。

 もちろん、働きすぎはよくありません。子育てや介護にしても、教会の司牧にしても、うまく人の助けを借りながら、無理なく続ける工夫をする必要があるでしょう。ですが、なかなかそれがうまくいかず疲れ果てたときには、「しばらく休みなさい」と言ってくださるイエスの声に耳を傾けたいと思います。エスは、休みたくても休めないわたしたちの苦しみを知り、疲れ切ったわたしたちに寄り添ってくださるよい羊飼いなのです。イエスの愛に支えられ、イエスの愛に導かれながら、イエスと共に働き続けられるよう祈りましょう。

バイブル・エッセイ977『しばらく休むがよい』(聖書朗読とミサ説教・片柳弘史神父) - YouTube

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こころの道しるべ(74)恩送り

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恩送り

「恩送り」という言葉があります。
「恩返し」は、
誰かからよくしてもらったら、
相手にもよくしてあげるということ。
「恩送り」は、
誰からよくしてもらったら、
他の人にも同じように
よくしてあげるということです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(976)一緒に派遣される

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一緒に派遣される

そのとき、イエスは十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。(マルコ6:7-13)

 イエスは「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた」と福音書は記しています。なぜ、一人ではなく二人で派遣したのでしょう。治安の問題から一人では危険であること、二人で話した方が証言に重みが出ることなどいくつかの理由が考えられますが、何より大切なのは、二人ならさまざまな困難に協力して立ち向えるということ、そして、そのような二人の姿そのものが福音の証になるということでしょう。

 パンもお金も持たずに行けという指示ですから、旅を続けるためには誰かから食べ物を恵んでもらわなければなりません。一人だけがもらえて、もう一人はもらえないということも、きっとあったでしょう。(わたしも修練者の頃に物乞いをしたことがあるのでわかるのですが、恵んでもらいやすい人と、そうでない人というのはどうしても出てくるのです。) そんなとき、二人組であればもらった食べ物を分かち合うことができます。一人が怪我をして歩けなくなったときでも、二人組であれば、もう一人が背負って運べるでしょう。動けなくなった仲間のために、助けを呼びに行くことだってできます。一人では不可能に思えることも、二人ならできる。そんなことが多いのです。

 二人組での旅の前提となるのは、弟子たちが互いに愛し合っていることです。神の愛やゆるしを説いていても、弟子たち同士は互いにまったく無関心であったり、喧嘩をしていたりすれば、あまり説得力がありません。弟子たちが、さまざまな違いを乗り越えて互いを受け入れ合い、助け合う姿。弟子たちの間に結ばれた確かな信頼の絆。キリストにおける完全な一致。そういったことが、キリストの教えが真実であることの証になるのです。何も持っていないのに幸せそうに旅を続けている二人の姿を見るだけで、人々は、彼らが誰であるのか、何をしているのかに興味を持ったことでしょう。まったく違った二人が協力し、助け合い、幸せに旅を続けていること。それ自体が宣教になるのです。

 このことは、現代社会に派遣された弟子であるわたしたちにも当てはまるでしょう。一人きりでも宣教はできると思いますが、二人、三人、あるいは百人の方が、もっと力強く神の愛を証することができるはずです。十二使徒たちは、それぞれに違った職業や考え方を持っていましたが、キリストにおいて一つに結ばれていました。わたしたちも、さまざまな違いを越えてイエスの愛の中で一致することができれば、そのこと自体が宣教になるでしょう。「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」というパウロの言葉は、まず教会の共同体の中で実現される必要があるのです。

 共同体を満たした愛は、自然と外に向かって流れ出してゆきます。あの教会のそばを通ると、なんだか明るい気持ちになる。楽しそうな話し声や聖歌隊の美しい歌声、よく手入れされた花壇、真心込めて作った掲示物など、すべてが協働体の中にあふれる愛の表れであり、キリストの愛の証になるのです。より力強い宣教のために、まず互いに認め合い、ゆるし合い、助け合うことができるように祈りましょう。

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こころの道しるべ(73)耐えられる苦しみ

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耐えられる苦しみ

耐えられないほどひどい苦しみも、
誰かがそばにいて手を握ってくれるなら
耐えられる苦しみに変わります。
愛する人の苦しみを
なくすことはできなくても、
耐えられる苦しみに
変えることならできるのです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(975)愛の奇跡

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愛の奇跡

 エスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。(マルコ6:1-6)

 故郷に帰ったイエスでしたが、そこでは、「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」とマルコ福音書は記しています。嵐さえ静めるイエスですから、相手が誰でも奇跡を行うことはできそうですが、「奇跡を行うことができなかった」。このことは、イエスの奇跡がどんなものであるかを示しています。イエスが人に対して行う奇跡は、相手に無理やりおしつける奇跡ではなく、相手がイエスに対して心を開き、イエスを信じたときだけに生まれる奇跡。イエスと相手との間に信頼の絆が結ばれ、相手がイエスの愛を受け入れたときにだけ生まれる奇跡。すなわち、エスの愛、神様の愛が引きおこす奇跡だったのです。

 思い込みを捨てて相手に心を開き、相手とのあいだに信頼の絆が結ばれたとき奇跡が起こる。それは、わたしたちの日常生活の中でも同じでしょう。例えば、頑固一徹で、何か言い出したら梃子でも動かない高齢者がいたとしましょう。そのような人に対して、「ああ、また始まった。どうせ何を言っても無駄だ」と思って最初から説得を諦めれば、事態がよくなることはないでしょう。しかし、相手を信頼し、腹を割って説明すれば、意外と納得して話を聞いてくれることがあります。「この人なら、必ずわかってくれる」とわたしたちが相手を信頼して話し、「この人は、本当にわたしのことを思っていってくれている」と相手が思って心を開いてくれるとき、わたしたちのあいだに生まれる確かな愛。その愛が、ありえないとさえ思われた変化を引き起こすのです。

 パウロが、「わたしは弱いときにこそ強い」と言うのも、この愛の奇跡と関係しているように思います。お金や自分の能力などに頼って自分は強いと思い込んでいるとき、わたしたちは神様に対して心を閉ざしています。神様のことを、すっかり忘れてしまっているのです。しかし、窮地に陥ったとき、自分の弱さを思い知らされたとき、わたしたちは神様のことを思い出します。まさに、「困ったときの神頼み」で、自分の弱さの中でこそ、わたしたちは神に心を向け、神に心を開くのです。わたしたちが心を開くとき、神様の無限の愛がわたしたちの心に流れ込みます。そのとき、わたしたちの心に生まれる、「こんなわたしでも、神様はこれほどまでに愛してくださる」という実感。その愛の実感こそが、すべてを可能にする力となるのです。人間の力には限界がありますが、神様にできないことはありません。まさに、「わたしは弱いときにこそ強い」のです。

 何より大切なのは、神様を信じ、相手を信じることです。信じるときわたしたちの心に流れ込む神様の愛、信じるときわたしたちと相手との間に生まれる愛の絆、それこそがすべてを可能にする力だからです。もし信じるなら、わたしたちの行く先々で、教会、職場、学校、そして家庭で、次々と奇跡が起こるでしょう。信じる力の恵みを願って、ともにお祈りいたしましょう。

バイブル・エッセイ975『愛の奇跡』(聖書朗読とミサ説教:片柳弘史神父) - YouTube

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こころの道しるべ(72)感動を見つける

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感動を見つける

「感動は半径5m以内にある」と言います。
よく見れば、道端の花や
庭のスズメたちの中にさえ、
感動はあるのです。
感動を求めて、
遠くまで出かける必要はありません。
大切なのは、感動を見つけだす心です。

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バイブル・エッセイ(974)生かすためにこそ

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生かすためにこそ

 エスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。(マルコによる福音書5:21-24、35b-43)

「どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」という会堂長ヤイロの願いを聞き入れ、イエスがヤイロの娘を癒やした場面が読まれました。「生きるでしょう」という言葉に、娘を思うヤイロの万感の思いが込められているような気がします。神は「生かすためにこそ神は万物をお造りになった」と知恵の書にある通り、子どもに何とかして生きてほしい、それはすべての親の願いであり、またイエスの願いでもあるのです。

 死んでいた子どもが生き返ったというところまでいきませんが、イエスの愛に触れることによって、生きる気力なくして部屋に閉じこもっていた青年が、また外に出て、社会と関わるようになった。自分なりの生き方を模索し始めたというような話はときどき聞きます。あるお母さんは、どう説得しても外に出すのは難しいと悟って以来、子どもの生活に干渉せず、そっと見守り、祈り続けました。すると数年がたったとき、その子はまた外に出るようになったのです。彼が外に出られるようになった理由はよくわかりませんが、自分の思いを無理やりおしつけず、子どもの歩みを忍耐強く見守り続けるお母さんの姿を通して、神さまの愛がその子の心に触れたのだろうとわたしは思っています。

 神さまは、お造りになったすべての命を生かしたいと望んでおられる。それと同時に、すべての命は生きたいという強い望みを持っている。それは命についての一つの真実だと思います。もし生きる気力を失ってしまったなら、それは、何らかの力が外から働いて、その人の生きる力をくじいてしまったからでしょう。「悪魔のねたみによって死がこの世に入る」と知恵の書は表現していますが、周りの人たちからのねたみや悪口、暴力などによって人を信じられなくなってしまう。愛を信じられなくなり、生きる力を失ってしまう。そのようなことは、十分にありうると思います。誰かから愛されている、自分は必要とされている、自分の人生には意味がある。そのような確信を取り戻させてくれる出会いさえあれば、わたしたちはまた「よし、生きよう」という気持ちになれるのです。

 わたし自身も、さまざまな仕事に追われ、疲れ果てて、「なぜこんなに忙しいんだろう。何のために生きているんだろう」というような気持ちになることが時々あります。そんなときこそ、しっかり祈るときです。「どうかわたしを生かしてください。生きる力をお与えください」と祈るなら、イエスがやって来て傍らに立ち、「起きなさい」と声をかけてくださるでしょう。疲れ切って祈ることさえ難しいというときは、死んだように寝るということも一つの方法かもしれません。疲れがとれたときには、イエスがやって来て、わたしたちを起こしてくださるでしょう。「生かすためにこそ神は万物をお造りになった」という言葉を心にしっかり刻み、生かす力、生きたいと願う力を信じましょう。

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