バイブル・エッセイ(979)すべてを差し出す

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すべてを差し出す(聖イグナチオ記念日)
 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:25-33)

「塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」とイエスは言います。十分な費用がなければ、途中までしか建てられず、恥をさらすことになるからです。この話と、前後の「父、母、妻、子ども」を憎まないなら弟子でありえないとか、「自分の持ち物を一切捨てなければ」弟子でありえないという話がどうつながるのか、ちょっとわかりにくいところです。ですが、建てようとする塔を修道生活と考えると、つながりが見えるように思います。塔が修道生活だとすれば、「十分な費用」とは、生涯を捧げる覚悟。イエスのために、自分のすべてを残らず差し出す覚悟なのです。

 わたしはまだ、修道生活に入って23年に過ぎず、平均寿命まで生きるとすればあと30年分くらい塔を積み上げなければなりません。まだ半分にも達していないというところです。しかし、その程度の年月であっても、塔を積み上げることはなかなか困難でした。もちろん自分のすべてを神に差し出す覚悟で修道生活に入りましたが、実際にはさまざまなことに執着し、その度ごとに身が引き裂かれるような苦しみを味わいながらここまで来たという感じです。マザー・テレサが、「主よ、もしあなたがわたしを引き裂くなら、引き裂かれた肉の一片に至るまですべてあなたのものです」と言っていますが、わたしが神にすべてを差し出すとすれば、まさに引き裂かれたわたしの断片を拾い集めてすべて差し出すということになるかもしれません。

 マザーのこの言葉は、イエズス会の前総長ニコラス神父もよく引用しておられたので、イエズス会の精神に通じるものがあるのでしょう。聖イグナチオの有名な『すべてを取り上げ、受け入れてください』(スシペ)の祈りの中に、「主よ、取り上げ、受け入れてください。私の一切の自由を、記憶を、理解を、意思を」という言葉がありますが、これも、自分のすべてを一片残らずあなたに差し出しますという思いの現れと考えられます。これまで着ていた服や使っていた剣も含めてすべての持ち物をイエスのために捨てたイグナチオは、今度は自分の心を隅々まで残らず差し出したいと考えたのでしょう。

 では、なぜそこまでしてイエスにすべてを捧げたいと願うのでしょうか。どうしたら、そこまでの覚悟をし、修道生活という塔を最後まで立派に積み上げることができるのでしょうか。それは、自分のすべてを差し出したときにのみ、修道誓願を通して自分を十字架にかけたときにのみ、わたしたちの心を神の「愛と恵み」が豊かに満たすと知っているからです。それはまさにわたしたちにとって最高の幸せであり、その幸せのためならすべてを差し出してもまったく惜しくない。それこそが、イエスの弟子に求められている覚悟なのだと思います。これは、修道生活だけでなく、すべての信徒の、それぞれに与えられた使命にも当てはまることでしょう。わたしたちは、自分に与えられた使命を通して、イエスに自分のすべてを差し出すことによってのみ最高の幸せに到達することができるのです。聖イグナチオの記念日にあたって、わたしたちがその覚悟を新たにすることができるよう、聖人のとりなしを願って共に祈りましょう。

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