バイブル・エッセイ(1000)信じる者の幸い

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信じる者の幸い

 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ1:39-45)

「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました」と、エリサベトはマリアに言いました。そのエリサベトの声も、きっと生き生きとした喜びで満たされていたことでしょう。喜びにあふれたマリアの声は、エリサベトの胎内にいるヨハネを喜びで躍り上がらせ、エリサベトの心も喜びで満たしたのです。

 それほど力強いマリアの喜びは、どこから生まれたのでしょう。エリサベトは、その喜びがどこから生まれたかに気づいていました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」とエリサベトが言う通り、マリアの喜びは神の言葉を心の底から信じたときに生まれる喜び、神の愛を信じ、神の愛に身を委ねたときにわたしたちの心と身体を満たす喜びだったのです。

 この喜びこそ、わたしたちの生きるための原動力だと言ってよいでしょう。年末の忙しさの中で、「ああ、また今年も去年と同じことの繰り返しだ。こんなことをして何になるんだろう」とふと思うことがあるかもしれません。コロナ禍の中で、「頑張って準備しても、どうせまたコロナで全部駄目になるんだ」と、将来を悲観してしまうこともあるでしょう。そんなときこそ、わたしたちはマリアに学ぶべきだと思います。理不尽なほどの忙しさの中でも、わたしたちが神の愛を忘れず、一人でも多くの人に神の愛を届けたいと願い続けるなら、その忙しさには必ず意味があります。たとえコロナで将来の予定が駄目になっても、いまこのとき、わたしたちが誰かの幸せのために準備することには、必ず意味があります。「すべては神の手の中にある。わたしは弱くて欠点だらけだが、神さまはこんなわたしを使ってさえよいことを行ってくださる」、そう信じるとき、わたしたちの心は喜びで、身体は力で満たされるでしょう。それこそ、わたしたちが生きるための力なのです。

 わたしたちの心を満たしたこの喜びは、わたしたちの周りにいる人たちの心にも流れ込んでいきます。「こんなことをして何の意味があるのか」とか、「これからいったいどうなるんだろう」と考えて暗い顔をしている人も、喜びにあふれた笑顔で元気に話す人の姿を見ているうちに、「この状況の中でも、こんなに明るい人もいるんだ。まだ希望はあるかもしれない」と思って、しだいに明るい笑顔になっていくのです。まさに、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は幸い」と言ってよいでしょう。「まだ希望はある。主である神は生きておられる」と感じるとき、わたしたちの心と身体は生きる力で満たされるのです。

 マリアの喜びは、エリサベトと出会うことによってあふれ出しました。エリサベトの顔が喜びで満たされてゆくのを見て、マリアの喜びは、さらに大きくなったでしょう。分かち合うことによって喜びは何倍にも大きくなり、わたしたち皆が、一緒に幸せになれるのです。マリアやエリサベトの模範に倣い、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じる幸い」を生きられるよう、心を合わせて共に祈りましょう。

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こころの道しるべ(96)間違って引いた線さえ

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間違って引いた線さえ

すぐれた画家は、
間違って引いた線さえ、
美しい絵の一部にしてしまいます。
わたしたちの人生もそれと同じ。
消せない間違いを、
いつまでも気にする必要はありません。
あきらめずに描き続け、
美しい人生の一部にしてしまいましょう。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(999)ニつの喜び

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二つの喜び

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィリピ4:4-7)

 「主において常に喜びなさい」とパウロは言います。喜びこそ、神と出会って救われたことの何よりのしるしであり、神が生きておられることの確かな証になるからです。しかし、「別にうれしいこともないのに、いつも喜んでいられるはずがありません」とか、「困難な情況の中でも、無理に喜べというのでしょうか」という声も聞こえてきそうです。どうしたら、「常に」喜んでいられるのでしょう。わたしたちは、どこに喜びを見つけ出すことができるのでしょうか。

 キリスト教の説く喜びは、二つの種類に分けられると言ってよいでしょう。それは、「与えられる喜び」「与える喜び」です。この喜びのどちらかを、あるいは両方を感じることができれば、わたしたちはいつも喜んでいることができるのです。

 「与えられる喜び」を感じるために大切なことは、何より、自分がどれだけ与えられているかに気づくことです。まず、この世界に生まれてきたこと、いまこうして生きていること。それ自体、神さまから与えられた大きな恵みです。神さまが与えて下さったこの命に感謝する。生きていることの奇跡に感謝する。そこからすべての喜びが始まると言ってもよいでしょう。仕事があること、食事に困らないこと、家族や友だちに恵まれていることなど、神さまから与えられている恵みは、数え上げればきりがありません。天気がよいことも恵みだし、日照りが続いた後には雨が降ることが大きな恵みになるでしょう。わたしたちは神さまの恵みの中に生きている。そのことに気づいていれば、わたしたちはどんなときでも、「与えられる喜び」を感じていられるはずです。

 与えられることは当然うれしいことですが、与えることもまた、同じように喜びを生み出してくれます。神さまから頂いた体力や時間を、困っている誰かのために差し出し、奉仕するとき、わたしたちの心は喜びで満たされます。奉仕することによって相手の苦しみが癒されるのを見るとき、わたしたちの心は喜びで満たされるのです。もしかすると、わたしたちが奉仕しても、相手は感謝してくれないかもしれませんが、「人間として当然すべきことができた。自分自身に恥じない行動ができた」ということは、それ自体で大きな喜びなのです。この喜びを味わうために必要なのも、やはり気づくことです。自分の周りにいる人たちの苦しみに気づくなら、わたしたちはその人のために何かせずにいられなくなるでしょう。困っている人、苦しんでいる人、悲しみの中で慰めを求めている人は、わたしたちの周りにたくさんいます。周りの人の小さな苦しみにも気づき、やさしい言葉をかけたり、助けの手を差し伸べたりすることができるなら、わたしたちはいつでも与える喜びを味わうことができるでしょう。

 「与えられる喜び」「与える喜び」は、別の言葉で言えば「愛される喜び」「愛する喜び」ということになります。わたしたち人間は、愛し合うために生まれてきたので、その目的を達成するとき、つまり互いに愛し合うとき、大きな喜びで満たされ、幸せを感じることができるのです。愛し合う喜びをいつも心に感じながらこの待降節を過ごせるよう、心を合わせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(95)人間の偉大さ

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人間の偉大さ

人間の偉大さは、
これまでに手に入れたものや
成し遂げたこと、
世間の評判などによっては決まりません。
いまこの瞬間、
どれだけ誠実に人と向かい合えるか、
見返りを求めず自分を与えられるか、
目の前の相手を
幸せにできるかによって決まります。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセー(998)心の大掃除

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心の大掃除

 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(ルカ3:1-6)

 イエスの誕生に先立ち、洗礼者ヨハネが「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とルカ福音書は伝えています。イエスが神の愛を人々に伝える前に、その愛を受け止めるのにふさわしい心、悔い改めた清らかな心を人々の中に準備する。それが洗礼者ヨハネの役割だったと言ってよいでしょう

 洗礼者ヨハネが果たした役割を、いま教会では、「ゆるしの秘跡」が果たしています。わたしたちは待降節のあいだに「ゆるしの秘跡」を受け、心を清らかにしてイエスの到来を待つのです。ちょうど、お客さんを迎えるために、部屋を片付け、きれいに掃除するのに似ているかもしれません。日々の生活の中で心の中に溜め込んでしまったお金や世間体などへの執着を手放し、人間関係で生まれた感情のもつれを整えて、部屋の中をすっきりときれいにするのです。

 この掃除は、徹底的にやるのに越したことがありません。がらくたや汚れた物は隅っこに隠して覆いをかけておき、「まあ、このくらいで大丈夫だろう」と手を抜くということでは、イエスさまをお迎えしても、心の隅々まで喜びで満たすことはできないからです。イエスさまの目を欺き、「隠しているものが見つかったらどうしよう」とビクビクしていては、クリスマスを心の底から楽しむことはできないのです。まだしがみついているものがあるなら、この機会に徹底的に手放す。まだゆるせない相手がいるなら、この機会に徹底的にゆるすのがよいでしょう。執着を手放し、怒りや憎しみから解放されて心が空っぽになればなるほど、わたしたちの心は大きな喜びで満たされるのです。

 でも、これまでも毎年、同じように「ゆるしの秘跡」を受けてきたのに、同じように間違いを繰り返してしまった。だから、掃除しても無駄だと思う人もいるかもしれません。しかし、それはまるで、「掃除してもまたどうせ散らかるんだから、初めから掃除しません」と言っているようなものです。人間である以上、生活していればどうしても何かへの執着が生まれてくるし、人間関係のもつれも抱え込んでしまうでしょう。それは、ある意味でやむをえないことです。人間である限り、わたしたちは完全ではありえないのです。そのような自分の弱さを認めて心をすみずみまで丁寧に掃き清め、イエスさまのために汚れのない謙虚な心を準備する。そこに、「ゆるしの秘跡」の意味があります。

 「曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」とイザヤは預言しましたが、「ゆるしの秘跡」を受けることによって、わたしたちの人生はまっすぐに整えられ、わたしたちの心のでこぼこは平らにされます。間違った方向に引き寄せられていく心は、進むべき正しい方向を見つけ出し、傲慢や卑屈さによってでこぼこになった心は、神の愛の中で穏やかに整えられてゆくのです。心を隅々まできれいに掃除し、心のすみずみまで喜びで満たされたクリスマスを迎えられるよう、皆で心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(94)物語の意味

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物語の意味

物語は、
途中で終わってしまえば
意味がありません。
最後まで書き上げたときに
意味が生まれるのです。
わたしたちの人生もそれと同じ。
意味があるから
生きるのではありません。
最後まで生き抜くからこそ
意味が生まれるのです。

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バイブル・エッセー(997)心配する必要はない

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心配する必要はない

「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21:25-28、34-36)

 世の終わりを恐れる人々に、イエスは、天変地異が起こり始めたなら、むしろ「身を起こして頭を上げなさい」と教えました。なぜなら、世の終わりとは「解放の時」に他ならないからです。世の終わりを説く宗教の中には、世の終わりの話をして人々を不安に陥らせ、自分たちの宗教を信じさせるようなものもあります。しかしイエスは、世の終わりとは、この地上での苦しみから解放され、神の愛に包まれて神の子として生きる救いの時。何も心配する必要はないと説いたのです。

 天地が崩れ去るような世の終わりがいつ来るのか、自分が生きているあいだに起こるのか、わたしたちは知りません。しかし、わたしたちは、人生の最後に必ず一つの「世の終わり」を体験します。それは、自分自身の死です。死についてもイエスは、恐れる必要がないと説きました。なぜなら、わたしたちには復活が約束されており、死とは永遠の命に至るための通過点に過ぎないからです。死の時が近づいたなら、わたしたちは、おびえるよりむしろ「身を起こして頭を上げる」べきでしょう。愛し、信頼する神さまの前に出るとき、神さまと顔を合わせて語り合うときが近づいているからです。

 世の終わりのことも、自分自身の死のことも、何も恐れる必要がない。むしろ、最後の瞬間まで神の子としてふさわしく生き、解放の時に備えなさい。それが、キリストの説く一貫した教えだと言ってよいでしょう。キリスト教は、人間の心からあらゆる恐れを取り除き、神の愛へと道を開く宗教なのです。世の終わりが来ようと、死の時が迫ろうと、「いつも目を覚まして祈り」、神の愛に満たされて、神の愛の導くままに生きる。そこにわたしたちの救いがあるのです。

 ある意味で、キリスト教徒には何も恐ろしいものがありません。世の終わりや自分の死さえも恐くないのですから、何を恐れる必要があるのでしょうか。何も恐れず、ただ神の愛のままに生きていればよいのです。ところが、それがわかっていても、わたしたちはつい様々なことに恐れを抱いてしまいがちです。試験の結果が悪かったらどうしよう、人から悪口を言われたらどうしようなどと、小さなことでもくよくよ心配し、「もうどうにでもなれ。やっていられない」などと思って「放縦や深酒、思い煩い」に陥ってしまいがちなのです。そんなときこそ、世の終わりや復活についての教えを思い出すべきでしょう。世の終わりや自分の死でさえ心配する必要がないのに、いま直面している困難について、そこまで心配する必要があるだろうか。そう考えれば、心が少し安らぐはずです。何があっても、神さまがわたしたちを見捨てることは決してありません。すべてが崩れ去ったとしても、そこには神さまの愛が待っているのです。

 今年も、待降節が始まりました。何も恐れない心、神の愛に満たされ、愛に導かれて生きる心に、イエスは必ず来てくださいます。ただ神の子としてふさわしく、愛を生きることだけを考えてこの時を過ごすことができるよう、いつも目を覚ましていることができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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