こころの道しるべ(93)「一人ぼっちでも」

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一人ぼっちでも

たくさんの人と一緒にいても、
自分は愛されていると信じられない限り、
孤独のさびしさが消えることはありません。
たとえ一人ぼっちでも、
自分は愛されていると信じられれば、
孤独を感じることはありません。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセー(996)真理の支配

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真理の支配

 そのとき、ピラトはイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ18:33b-37)

「お前がユダヤ人の王なのか」と問うピラトに対して、イエスは、「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、わたしの国はこの世には属していない」と答えました。イエスは王なのですが、この王が治める国は、目には見えない神の国、真理のみによって統治される愛の国なのです

 この国は、暴力によって相手を従わせる地上のやり方とは無縁なので、イエスを守るために兵士たちが出動することはありません。しかし、どんな暴力も、この国に手を出すことは不可能です。暴力で無理に相手を従わせたとしても、もし真理に反する行動を地上の王が取り続けるなら、その国が長く続くことはないからです。不正や暴虐がはびこる国、弱者の権利を踏みにじるような国は、やがて不正をなくし、誰もが幸せに暮らせることを願う人々によって倒され、とって代わられるものなのです。そのことは、イエスを処刑したローマ帝国が、その後どのような歴史をたどったかを思い出せば明らかでしょう。どんな時代であっても、勝利するのは必ず真理です。地上で最も大きな力を持つ王でさえ、結局のところ、真理であるキリストの下僕に過ぎないのです。

 キリストは、わたしたち一人ひとりも、王としてくださいました。わたしたちは、みなキリストの王職を引き継ぎ、王として生きる使命を与えられているのです。その王職は、ふんぞり返って威張り散らし、私利私欲を満たすことではありません。この地上に真理を実現すること、弱者が虐げられることなく、すべての人が幸せに生きられる世界を実現することこそ、わたしたちが王として果たす使命なのです

 まず、わたしたち自身の心を治めることから始めたいと思います。妬みや猜疑心、人を陥れる企みなどは、明らかにわたしたちの敵です。もし心の中に入り込んだなら、ただちに見つけ出して捕らえ、心の外に出してしまう必要があります。真理が支配する国にあるのは、ただ隣人をいたわる思いやり、苦しんでいる人がいれば、その人のために自分を差し出そうとする愛だけなのです。

 わたしたちの心の中に真理の支配が実現し、愛が心を満たすとき、その支配は周りの人たちへも広がってゆきます。わたしたちが差し出す無償の愛は、相手の中に眠っている真理を呼び覚まし、相手も真理に従う者に変えてゆくからです。わたしたちが真理に従って生きている限り、わたしたちは自分の家族、自分に与えられた人々の中で、いつも愛され、頼られる王として領土を広げ、使命を果たすことができるでしょう。親の子どもに対する支配、家族に対する支配というものがあるなら、それは、子どものため、家族のために、自分を差し出すことに他ならないのです。

 真理に背いて幸せになれる人は誰もいません。真理の支配から逃れられる人は、誰一人いないのです。王であるキリストのもと、わたしたち一人ひとりが真理に従い、この地上に真理を実現する王となれるよう、心を合わせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(92)いまを精いっぱいに

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いまを精いっぱいに

自分がいつ死ぬのかさえ、
予測できないわたしたち。
一番大事なことがわからないのに、
そんなに先のことまで
思い悩んでも仕方がありません。
わたしたちにできるのは、
与えられたいまを
精いっぱいに生きることだけです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセー(995)揺るぎない人生の土台

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揺るぎない人生の土台

「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」(マルコ13:24-32)

 世界の終わりについて語った後、イエスは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言いました。世界の終わりは必ずやってくる。この世界のものにより頼み、それを人生の土台としているなら、その人の人生は世界の終わりと同時に崩れ去るだろう。しかし、神の言葉、神の愛を土台として人生を築き上げるなら、その人の人生は決して崩れない。イエスは、そう言いたかったのでしょう。わたしたちはどちらを選ぶのか、それが問われているのです。

 人生の土台をどこに置くか。それは、別の言い方をすれば、自分の人生の意味をどこに見出すかということでしょう。人生の土台を見つけるとは、何によって自分の人生を肯定し、受け入れるかということなのです。もしわたしたちが、自分は人から評価されているから、社会の中で重要な地位や身分を与えられているからという理由で自分の人生を肯定し、自分の人生に意味があると考えるなら、それは地上のものに土台を置いているということになります。もし地上のものに土台を置いているならば、世界の終わりがやって来たとき、その人は自分の人生の意味を見失うことになるでしょう。自分を評価してくれた人たちも死に、自分自身も死ぬという現実に直面したとき、社会のシステムそのものが崩壊し、地位や身分がまったく意味を持たなくなったとき、その人の人生は土台から崩れてしまうのです。

 もしわたしたちが、日々の生活の中で神の愛、神の恵みを実感し、そのことによって自分の人生をすばらしいものとして受け入れているなら、それは自分の人生の土台を神の愛に置いているということです。神の愛を信じる心を持ち続ける限り、その人の人生の土台が揺らぐことはありません。世間での評価がどう変わろうと、地位や身分がどう変わろうと、自分の人生には意味があると確信して生きることができるのです。たとえ自分の生命が尽き、死を迎えるときがやってきても、それは、その人にとって自分が人生の土台を据えた大地、目には見えない神の愛の中に帰るということにすぎません。そこには何の恐れも、心配もないのです。

 果たして、わたしたちはどちらを選んで生きているのでしょうか。わたし自身は、ときどき自分の人生の意味に疑問を感じることがあります。忙しい毎日の中で、「なんのためにこんなことをしているんだ」と感じたり、「人から馬鹿にされたらどうしよう」と恐れたりしてしまうことがあるのです。それは、まさに人生の土台をこの地上のものに置いているしるしでしょう。そんなときは、人生の土台を、また神の愛の方に置きかえるため、ただちに祈るようにしています。

 イエスが世の終わりについて語るのは、わたしたちを脅すためではなく、「何に人生の土台を置いているのか」と問いかけるためだったとわたしは思っています。この機会に、自分の人生はどこに土台を置いているのか、自分の人生に揺らぎはないか、もう一度神様の前で確認したらよいでしょう。神の愛に土台を置き、揺るぎない人生を選ぶことができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(91)小さなチャンス

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小さなチャンス

「こんな小さな仕事、
やっても仕方がない」
と思ってすれば、
実際に小さな成果しか出せません。
「小さな仕事だが、
この小さなチャンスに全力を尽くそう」
と思ってすれば、
予想をはるかに
越える成果が生まれます。

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バイブル・エッセー(994)愛の報い

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愛の報い

 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:41-44)

 貧しいやもめが銅貨2枚を賽銭箱に投げ入れたのを見て、イエスは、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」と言いました。このやもめが、思い切って生活費のすべてを投げ入れたことを知っておられたからです。このわずかなお金に込められた彼女の大きな愛。神は、その愛を、どんな巨額の献金よりも喜ばれる。イエスは、人々にそのことを知らせたかったのだと思います。

 ある高齢の神父さんから、こんな話を聞いたことがあります。第二次世界大戦後の食料不足の時期に、その神父さんが田舎まで食料の買い出しに行ったときのことです。その日はとても運がよく、一日中歩いてなんとか十分な食料を手に入れ、帰りの満員列車の中でも席を見つけられました。帰り道も4時間はかかりますから、これは恵まれたことです。しかし、神父さんは近くに疲れた顔をした女性が立ち、苦しそうにしているのに気づきました。自分もへとへとに疲れているし、すさまじい混雑だったので、気づかないふりをしようかとも思ったそうですが、神父さんはついに立ち上がり、その女性に席を譲ったそうです。女性は別に感謝もせず、「ずいぶんお人好しだな」という顔で神父さんを見ただけでしたが、そのとき、神父さんの心はどこからともなく湧き上がる大きな喜びに満たされたそうです。その喜びは帰りの道中ずっと続いただけでなく、その日のことを思い出すたびに湧き上がってきて、生きる力を与えてくれる。神父さんは、うれしそうにそう言っておられました。

 席を譲ったことによって、神父さんは、どんなお金を払っても買えないくらいすばらしいお恵みを、神さまからいただいたということでしょう。極限状態の中で誰かのために自分を差し出した神父さんの愛を、神さまはしっかり見つけて受け取り、その愛に大きな恵みで報いてくださったのです。旧約聖書の中に、貧しい女性が、自分が持っているわずかな小麦粉と油をエリヤに差し出したところ、どんなに使っても「壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」という奇跡が記されていますが(列王記上17:10-16)、この神父さんに起こった出来事はこれとよく似ています。神さまのために、自分の差し出せるものをすべて差し出したとき、神父さんの心にいつまでも喜びが溢れだす、真実の愛が刻まれた。それこそ、神さまがあたえてくださった何よりの報いだったということでしょう。

 持っているすべてのものを惜しみなく差し出すとき、神さまはわたしたちの捧げものを喜び、大きな報いを与えてくださいます。困っている誰かのために自分を差し出すことができた、その人のために役立つことができた、ぎりぎりの状態にあっても「神の子」らしく振る舞うことができたという体験は、真実の愛の体験としてわたしたちの心に深く刻まれ、わたしたちの一生の宝となるです。聖書に登場する貧しい女性たちや、席を譲った神父さんの模範にならい、わたしたちも、惜しみなく自分を差し出すことができるよう祈りましょう。

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こころの道しるべ(90)芋虫と蝶

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芋虫と蝶

芋虫が、死んだ仲間を思って
「あいつはもう地面をはえない。
葉っぱを食べられない」
と悲しんでいるとき、
その仲間は蝶として空を舞い、
花の蜜を吸っています。
人間の死も、
それと同じかもしれません。

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