バイブル・エッセイ(1038)本当に大切なもの

本当に大切なもの

 そのとき、群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:13-21)

 親の遺産を自分も相続できるようにしてくれと頼む人に、イエスは「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」と言いました。財産を手に入れても、自分の命を失ったらどんな意味があるのか。人生には、財産よりもっと大切なものがある。イエスは、この人にそう教えたかったのでしょう。

 どんなに財産を手に入れても、死んでしまえば何の役にも立たない。そのことを、コヘレトは、「なんという空しさ、すべては空しい」と言って嘆きます。人間は、財産や名誉、権力などを手に入れようとして一生努力し、それを守るために日夜労苦する。しかし、人生の最後には、死によってすべてを奪われる。そうだとしたら、人間の人生など、いったいどんな意味があるのか。コヘレトは、そのように感じたのです。

 今から3000年前に生きたコヘレト、すなわちソロモンの言葉は、現代を生きるわたしたちの心にも深く響きます。たとえば、わたしは今、新しい本を出してもらったばかりなので、「この本が世間から受け入れてもらえるだろうか」という不安を抱えています。世間からの評価、もっと言えば名誉に心を奪われた状態と言ってよいでしょう。ある本は売れ、ある本は消えていく。そのたびに一喜一憂しているうちに、やがてわたしの人生も終わりのときを迎えます。死んだ後、いったい何冊の本が残るでしょうか。100年後まで残る本は、きっとないでしょう。そう考えるとき、わたしもソロモンと一緒に「何という空しさ、すべては空しい」と言いたくなります。会社での出世や学問の世界での成功など、地上での栄光を求めるすべての努力に同じことが言えるでしょう。地上のことを追い求めても、すべては空しいのです。

 では、わたしたちの人生にいったいどんな意味があるのでしょう。死によってさえ奪われないもの。一生をかけて、そのために努力する価値があるものとは、いったい何なのでしょう。それは、愛だと思います。地上に蓄えられたものはすべて消え去りますが、神に捧げられた愛、人々のために捧げられた愛だけは、天に蓄えられ、いつまでも消えることがないのです。

 わたしの例で言えば、たとえ本は消えても、本を書くときわたしの心に燃え上がっていた「神からどれだけ愛されているかに気づかないまま、自分には価値がないと思い込んでいる人たちに、何とかして神の愛を伝えたい」という気持ち、その気持ちに込められた愛は、いつまでも消えず、わたしの心に、そしてその愛を受け止めてくれた人たちの心に残り続けるでしょう。その愛だけは、死によってさえ奪い去られることなくわたしの心に残り、わたしが死んだ後もこの世界に残るのです。

 人生の終わりに、自分がしてきたことを振り返るとき、大半が愚かで無駄なことだったとしても、その中にほんのわずかでも愛を見つけ出すことができたなら、わたしたちはきっと「こんなわたしの人生にも、確かに意味があった」と思い、満足して死ぬことができるのではないでしょうか。この世のものに一喜一憂することなく、本当に大切なもの、死でさえ奪うことができない愛のために生きられるよう、聖霊の助けと導きを祈りましょう。

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こころの道しるべ(126)心をまっすぐ整える

心をまっすぐ整える

目標に向かって心をまっすぐ整えれば、
生活もまっすぐ整ってゆきます。
目標を見失って心がぶれ始めると、
生活も同じようにぶれ始めます。
生活を整えたいなら、
まず心を整えることから始めましょう。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1037)何を求めて祈るのか

何を求めて祈るのか

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:1-13)

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とイエスは言います。困難の中でくじけそうになるわたしたちの心を励ます、希望に満ちた言葉です。ただし、一つ気をつけなければならないことがあります。それは、イエスが、求めれば何でも与えられるといっているわけではないということです。父である神さまは、わたしたちに何が必要かを知っていて、本当に必要なものを与えてくださる。だから、あきらめずに求め続けなさいといっておられるのです。

「祈りを教えてください」と願う弟子たちに、イエスは「御名が崇められますように。御国が来ますように」から始まる祈りを教えました。「あれがほしい、これがほしい」とか「ああなりますように、こうなりますように」と祈るのではなく、ただ「神のみ旨が行われますように」とだけ祈りなさいというのです。これはとても理に適ったことだと思います。なぜなら、わたしたちは、自分にとって本当に必要なものが何か知らないからです。

 わたしたちはいま、先のことについてあれこれ計画を立て、いろいろなものが欲しいと思っているかもしれません。しかし、たとえば明日、病院でお医者さんから「あなたはあと半年の命です」と言われたらどうでしょうか。きっと、やりたいことも、欲しいものも、すっかり変わってしまうに違いありません。地震で家が壊れたり、勤め先が倒産したりしても同じでしょう。つまり、自分の身にこれから何が起こるか分からないわたしたちには、自分にとって本当に必要なものが何かわからないのです。

 それだけではありません。わたしたちは、自分の心が本当に求めているものが何か、わかっていないことが多いのです。たとえば、わたしたちはときどき、店先やカタログで見た高級な品物が欲しくて仕方がなくなることがあります。しかし、実際に手に入れてみると、あまり必要なものではなかったと気づいて後悔することも多いのです。一時的に何かがどうしても欲しくて仕方がなくなることを、わたしは「欲望の発作」と考えていますが、なぜそんなことが起こるかというと、それは心が満たされていないからです。素敵な品物を見て、「これさえ手に入れれば心が満たされるかも」と錯覚するとき、わたしたちはそれが欲しくて仕方なくなるのです。しかし、手に入れても、心が満たされることはありません。物によって心を満たすことは不可能だからです。

 自分の身にこれから何が起こるのかわからないわたしたち、自分自身の心が何を求めているのかさえわからないわたしたちが、「ああしたい、こうしたい」「あれが欲しい、これが欲しい」と神に願っても意味がありません。わたしたちにとって唯一意味のある祈りは、「ただあなたのみ旨が行われますように」という祈り。あらゆる執着を手放して、神さまにすべてを委ねる祈りだけなのです。神さまにすべてを委ねて祈るとき、わたしたちの心は聖霊で満たされます。心が聖霊で満たされるとき、わたしたちは自分にとって本当に必要なものが何かを知るでしょう。すべてはそこから始まるのです。「主の祈り」と共に、自分のすべてを神の手に委ねることができるように。いつも、聖霊に導かれて正しいものを求めることができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

 

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こころの道しるべ(125)愛の報酬

愛の報酬

誰かのために尽くしても、
見返りがあるとは限りません。
見返りを求めないで
自分を差し出すときに、
心の底から湧き上がる喜びこそ、
見返りを求めない愛の報酬なのです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1036)必要なことは一つだけ

必要なことは一つだけ

 イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:38-42)

 妹のマリアが給仕を手伝ってくれないと苦情を言うマルタに、イエスは「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」と言いました。イエスの弟子として生きるためにただ一つ必要なこと、それはイエスを愛することだと言ってよいでしょう。マリアは、イエスを愛することを何より優先した。それを邪魔してはいけない。イエスは、マルタにそう諭したのです。

 マルタはこのとき、「多くのことに思い悩み、心を乱している」状態でした。それはたとえば、「わたしは長女だから、お客様が来たときのおもてなしはわたしがしなければならない。もてなしが不十分なら世間様に笑われる」とか、「なぜ妹は、わたしが一生懸命に働いているのに一緒に働いてくれないのだろう。こんな妹と、いつまで一緒にいなければならないのだろうか」というようなことでしょう。マルタは、ユダヤ教社会での長女としての義務とか、妹との人間関係とか、イエス以外のさまざまなことで心を乱し、妹だけでなくイエスに対してさえ腹を立てていたのです。マルタの心は、さまざまなことにかき乱され、イエスへの愛から遠く離れていたといってよいでしょう。

 わたし自身も、マルタのようになっていることがときどきあります。仕事に追われて忙しいときなど、つい「これをやらなければ神父としての義務を果たさなかったと言って批判されるかもしれない。仕方ないからやろう」とか、「わたしがこんなに頑張っているのに、なぜみんな分かってくれないのだろう」とか、色々とつまらないことを考えて心を乱してしまうことがあるのです。挙げ句の果てに、「神様、どうしてわたしばかりこんなに忙しいのですか」と苦情を言い始めることさえあります。世間体を重んじたり、人間関係に悩んだりしているうちに、イエスへの愛からすっかり遠ざかってしまうのです。

 そのようなわたしたちに、イエスは「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」と語りかけます。本当に必要なことは、イエスを愛することだけなのです。仕事に追われて忙しいなら、その一つひとつの仕事の中でイエスと出会うこと。イエスを愛することだけを考えるべきでしょう。幼稚園の子どもたち、刑務所の受刑者たち、教会の信徒たち一人ひとりの中にイエスがおられることを思い出し、イエスを愛することだけを考えるのです。

 奉仕するために何より大切なのは、自分が奉仕している相手の顔をしっかり見ることだといってもいいかもしれません。自分に与えられた人々の顔をしっかり見つめ、その中にイエスを見ている限り、わたしたちの心が乱れることはないのです。目の前に相手がいない場合であっても、誰のために奉仕しているのかを忘れず、自分の働きによって喜んでくれる人たちの顔を思いながら働いている限り、心が乱れることはないでしょう。余計なことを考えず、いつもイエスを愛することだけに集中できるように。いつも喜んで人々に奉仕することができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(124)意味は必ずある

意味は必ずある

大きな失敗をしたときや、
思った通りに生きられないとき、
わたしたちはつい
「こんな人生には意味がない」
 と思ってしまいます。
ですが、それは、
「人生の意味を見失った」
ということに過ぎません。
生きている限り、意味は必ずあるのです。

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バイブル・エッセイ(1035)心に刻まれた掟

心に刻まれた掟

 ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10:25-37)

「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とイエスから問われた律法の専門家は、迷わずに「その人を助けた人です」と答えました。「わたしたちは、誰かを愛することによってその人の隣人になる」ということをこの人は初めから知っていたのです。知っていながらそれを実践できなかったので、自分を正当化するために「わたしの隣人とは誰ですか」などとイエスに尋ねたのです。

「隣人を自分のように愛するべきだ」ということは、幼稚園の子どもでも知っています。わたしはときどき幼稚園の子どもたちに、「あるところに、大金持ちで頭がいい会社の社長さんがいました。その人が道を歩いていると、お友だちが倒れて泣いていました。ところがこの人は、『ぼくは知らないよ』と行って通り過ぎてしまいました。この人は偉い人ですか?」と尋ねます。すると3-4歳くらいの子どもでも「うんうん、偉くない」と首を横に振ります。「お友だちが泣いていれば、助けてあげるべきだ」ということは、小さな子どもたちでも知っているのです。

 それは、人間の心に、生まれながらに愛が刻まれているからだとわたしは思います。神の似姿として造られ、神の愛によって生きるものとなったわたしたちの心の中には、生まれたときから愛が宿っているのです。傷つき倒れている人、困って途方に暮れている人を見るとき、愛は「その人を助けてあげずにいられない」という気持ちをわたしたちの心に湧き上がらせます。愛はわたしたちに、苦しんでいる人、困っている人たちを愛するように命じると言ってもよいでしょう。申命記は「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」30:14)と語っていますが、神の御言葉とは愛であり、愛の掟は生まれながらにわたしたちの心に記されているのです。仮に聖書の言葉を読んだことがなかったとしても、自分の心に正直でありさえすれば、わたしたちは御言葉を行うことができるのです。

 しかし、わたしたちはつい、この律法の専門家のように、さまざまな理由をつけて愛の実践を拒んでしまいがちです。「なぜわたしだけがやらなければならないのか」とか、「こんなことわたしには無理だ」とか、「やらなければならない大切なことが他にもある」とか、やらない理由はいくらでも考えられるのです。しかし、それらはすべて、頭で考えたごまかしでしかありません。心に刻まれた愛の掟は、どんな場合でもわたしたちに、「その人を愛しなさい。その人の隣人になりなさい」と呼びかけているのです。

 苦しんでいる人、困っている人の姿を見れば見るほど、その人たちの苦しみや悲しみを知れば知るほど、心の中から呼びかける愛の声は大きくなっていきます。それでも無理に、頭で考えた理屈で自分を正当化しようとすれば、わたしたちの心は痛みを感じるでしょう。愛すること、隣人になることによってのみ、わたしたちは「神の子」としてふさわしい者になり、心から幸せに生きられるのです。どんなときでも、心に刻まれた愛の声に忠実に生き、すべての人の隣人となれるように。「神の子」にふさわしい生き方をして幸せになれるように、ご一緒にお祈りしましょう。

 

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