入門講座(1) 自己紹介と導入

1.自己紹介
 このクラスを始めるにあたって、まず自己紹介をさせていただきたいと思います。
 わたしは片柳弘史といいます。3月末日より、カトリック六甲教会で助祭として働いています。3月29日に東京のイグナチオ教会で助祭叙階の恵みを受けたばかりで、六甲教会が叙階後はじめての任地です。9月には東京で司祭叙階の恵みを受ける予定になっています。イエズス会に入って、今年でちょうど10年になります。入会した時は26歳の若者でしたが、今はもう36歳です。出身は埼玉県上尾市で、関西に住むのは今回が初めてです。

(1)受洗までの経緯
 わたしの実家はキリスト教となんの関係もありません。父は温室で花作りを営む百姓でした。地元の農業高校を出てから、ずっと百姓一筋で生きた人です。20代はじめに隣町の農家から片柳家に嫁いできた母も、父を手伝って百姓仕事だけをしてきた人です。そのような家庭環境のなかで、わたしだけが大学4年生のときに洗礼を受けました。きっかけは、大学3年生のときに父が亡くなったことにあります。
 もともとキリスト教には興味があり、大学に入った直後にプロテスタントの教会に通っていた時期もありました。しかし、勉強が忙しくなってくるにつれて教会からはすっかり足が遠のいてしまいました。またキリスト教に戻るきっかけになったのは、父の死でした。父の死後、遺産の整理などで家のなかがごたごたし、勉強をする雰囲気ではなくなった時期がありました。そのときにたまたま読んだ本が、イエズス会の神父様(ハビエル・ガラルダ神父、現イグナチオ教会助任司祭)の書いた本でした。どこか心のよりどころになるような場所がほしいと思っていたわたしは、その本に紹介されていたキリスト教入門講座に通い始めることにしました。その入門講座は若者がたくさん参加していて活気のある集まりで、わたしにとって居心地のいい場所でした。講座の一環として、合宿や黙想会なども行われていました。そのような行事にも参加し、講座のみんなと仲よくなるなかで、わたしも洗礼を受けようかなという気持ちになっていきました。講座を担当していた神父様にご相談したところ、本人にその気があるならば受けてもいいだろうとのことでしたので、講座に通い始めてちょうど1年が過ぎた1993年11月、上智大学のアロイジオ聖堂で受洗の恵みにあずかりました。洗礼名はパウロでした。

(2)司祭を目指した動機
 司祭を目指す直接のきっかけとなったのは、大学卒業後に滞在していたインドのカルカッタで、マザー・テレサから司祭への道を勧められたことでした。
 そもそもなぜカルカッタに行ったのかということから説明しないといけないでしょう。大学4年生で洗礼を受けたあと、わたしはしばらく悩んでいました。洗礼は受けたものの、神の愛とかイエスと出会う喜びというようなものがあまり感じられなかったからです。心のやすらぎや幸せというようなものを漠然と求めて洗礼を受けたわたしでしたが、残念ながらそういう実感はえられませんでした。その原因は、祈りや隣人愛の実践が欠けていることあるとわたしは考えました。今でもそうですが、なんでも頭で理解して解決しようとする傾向を強く持っているわたしは、キリスト教のことも本などで読んで理解したつもりになり、それだけで洗礼を受ける決心をしました。それが悪かったのではないかと思ったのです。頭でキリスト教を理解したつもりになっているだけではだめで、祈りや愛の実践がなければキリストとの出会いや神の愛というようなものは体験できないのではないかと思ったわたしは、キリスト教的な愛の実践ということについて考え始めました。そのときに思い出したのが、子どものころテレビで見たことがあり、高校生の頃に本も読んだことがあったマザー・テレサのことでした。わたしは以前に読んだマザー・テレサの伝記などをもう一度読み返すことにしました。読んでいて気がついたのは、マザー・テレサの没年がまだどの本にも書いていないということでした。あるとき東京にマザー・テレサのシスターたちがいると聞いたわたしは、彼女たちのところに行ってみようと思って、彼女たちの修道院に電話をかけてみました。そのとき「ところで、マザーはいつ亡くなったのですか」と聞いてみました。すると、「マザーはカルカッタでご健在です」という答えが返ってきました。すでに伝記なども出ているし、マザー・テレサというのはもう死んだ人に違いないと思いこんでいたわたしにとって、この答えは驚くべきものでした。マザーが健在だということを知ったわたしの心の中に、「ならばカルカッタに会いに行かなければ」という思いが瞬時に湧きあがってきました。こうしてわたしはカルカッタに行くことになったのでした。1994年5月のことでした。
 カルカッタでは、「死を待つ人の家」として日本で知られている、病気で苦しむ貧しい人々のためのセンターでボランティアをしていました。毎朝、マザー・テレサの修道会の本部であるマザー・ハウスでミサにあずかったあと、カルカッタ郊外にある「死を待つ人の家」で働き、夕方またマザー・ハウスに戻って夕の祈りに参加するという日々でした。1994年12月には、マザーに代母をお願いして、マザー・ハウスで堅信の恵みをいただくという出来事もありました。
 1995年1月のある日、わたしはいつものように「死を待つ人の家」での仕事を終えて、マザー・ハウスに戻り、2階の廊下でシスターと立ち話をしていました。そのとき、たまたまマザーが横を通りかかりました。ふだんならばそのまま通り過ぎていくのですが、マザーはそのときに限ってわたしたちの前で突然立ち止まり、わたしに向かって「あなたは神父にならなければなりません」と話し始めたのです。まったく突然のことに唖然としているわたしにむかって、マザーは「今すぐに決心しなさい、あなたはキリストと結婚するのです」などと話し、その場にいたシスターに紙を持ってこさせて神父さんたちの連絡先の電話番号を書いてくれました。なぜマザーがいきなりそんなことを言い始めたのか、今でもよくわかりませんが、なにしろそのときからわたしは神父になる道を考え始めたのでした。それまでは一度も神父になろうなどと考えたことはありませんでしたが、あのマザー・テレサがそう言うんだったら考えないわけにもいかないだろうと思ったのです。
 しばらく迷い、悩んだ挙句、1995年10月頃わたしはマザー・テレサの修道会の司祭部門でしばらく神父様たちと一緒に生活してみることにしました。しかし、一緒に生活をしはじめてすぐに、わたしは毎日熱を出すようになりました。しばらくすると血痰まで出るようになり、結核だということがわかりました。そのため、カルカッタでそれ以上生活するのは難しくなりました。1995年12月、わたしは日本に帰ってきて東京の大学病院に入院しました。入院してわかったのは、わたしがかかった結核は、耐性菌といってとても治しにくい菌が起こしたものだということでした。お医者さんには、もし治ったとしてもカルカッタに戻ることは自殺行為だと厳しく注意されました。
 そこでわたしは、日本で神父になることを考え始めました。洗礼を受けたのがイエズス会の神父様からだったこと、そしてインド滞在中に日本人のイエズス会員(柳田敏洋神父・現エリザベト音楽大学教授)と知り合いになったことなどから、わたしはイエズス会で神父になろうかと考え始めました。退院後、柳田神父から8日間の「霊操」を2回ほど授けてもらう中でイエスからこの道に呼ばれているということを感じたわたしは、イエズス会に入って司祭への道を歩む決心をしました。1997年10月のことでした。

カルカッタ滞在中の体験については、拙著『カルカッタ日記 マザー・テレサに出会って』(ドン・ボスコ社刊)に詳細を記しました。興味のあるかたはお読みください。

2.導入
 この話を聞いていただいた以上、もはや言うまでもありませんが、わたしはマザー・テレサから強く影響を受けています。ですから、わたしが担当するキリスト教入門クラスの内容も、マザー・テレサの影響を受けたものになるでしょう。
 さらに、わたしはこの10年間イエズス会の中で養成を受けてきましたから、キリスト教信仰の根幹部分を聖イグナチオ・デ・ロヨラの「霊操」によって支えられています。「霊操」とは聖イグナチオが考案した祈りのプログラムで、イエズス会霊性の土台になっているものです。ですから、このクラスの内容には、「霊操」の影響も強く現れるでしょう。わたしのキリスト教信仰の種は、最初に参加したキリスト教入門講座やカルカッタでまかれましたが、その種が芽を出したのは「霊操」によって神の愛を実際に体験したからだと言えます。
 この4年間、わたしは上智大学で神学を勉強してきました。勉強すればするほど強く感じるようになったのは、結局イエス・キリストのことを人間の頭で理解しつくすことは不可能だということです。なぜ不可能なのかということも、うっすらと分かるようになってきました。そのようなキリスト教のわからなさも、このクラスの中でお伝えできればと思います。わからなさの中で、ただイエス・キリストのみを信頼し、イエス・キリストについていくことこそが、キリスト教だと思っているからです。
 これからの1年間で、これまでのわずかな人生経験からわたしなりに理解したキリスト教の姿をみなさんにお伝えすることができればと思います。クラスの後半30分は質疑応答の時間にあてますから、質問だけでなく、ご意見や感想も自由におっしゃってください。みなさんのご意見をうかがいながら、みなさんと一緒にもっとイエス・キリストのことを知っていくことができれば、これ以上の喜びはありません。