入門講座(2) 宗教とは何か

宗教とは何か?

《今日の福音》ヨハネ10:22-30
 「お前はメシアなのか」と問い詰めるユダヤ人たちに、イエスは「わたしと父とは一つである」と答えます。これはまったく驚くべき答えです。イエスは、ご自分がメシア以上のもの、神そのものだとおっしゃったのです。メシアは、神から遣わされているにしろ人間にすぎませんが、イエスは人間以上のもの、神ご自身と一つのものだといのうです。この信仰は、初代教会の時代からキリスト教とたちによって大切に語り継がれ、325年に行われた第1回の公会議であるニケア公会議において「父と子の同一本質」という教義に結実しました。簡単に言えば、父なる神と子なるイエスは、同じものだということです。イエスを見た人は父なる神を見たことになるという関係が、イエスと父なる神の間に存在するということです。この教えは、キリスト教の根幹をなす重要なものなので、覚えておくといいでしょう。

《宗教とは何か》
 現代の日本社会で、宗教は危険なものと見なされる場合が多いようです。「あの人は宗教をやっている人だ」という表現は、あの人は変わった人だから気をつけたほうがいいという意味に使われますし、「宗教戦争」、「カルト宗教」というような言葉も宗教に恐ろしいイメージを与えています。確かに歴史を見たときに、キリスト教が独善的、排他的になって他の宗教を信じる人々に戦争をしかけたり、魔女狩りのようなことを行ったりしてきたことは事実です。キリスト教を学ぶ前に、わたしたちは、宗教が持っているこのような恐ろしい側面を知っておく必要があると思います。

1.定義
 宗教とは、人間の理解を超えた体験についての、人間が理解した範囲内での表現だということができるでしょう。人間は、あまりにも清らかなものや崇高なものと出会った時に、自分の理解をはるかに超えるような不思議な感覚、恐れと同時に喜びに満たされるようななんとも言い難い感覚にとらわれることがあります。このような体験を超越体験と呼びますが、超越体験をした人間は、その体験をつたない自分の言葉でなんとか表現し、人に伝えようとします。喜びや驚きに駆り立てられて、そうせざるをえないのです。この表現が宗教の始まりだと考えられます。人間の理解をはるかに超えることを、人間のつたない言葉で表現したもの、それが宗教なのです。

2.超越体験とは?
 超越体験は、得体のしれない恐ろしさや不安を生むと同時に、言い知れないほどの魅力や安心感、喜びを引き起こすものだと言われています。ルドルフ・オットーという人は、このような体験をヌミノーゼ体験と呼びました。「神的な体験」という意味です。たとえば、早朝うっそうとした森に囲まれた神社にお参りしたときの感覚、大聖堂で一人祈っているときの感覚などがこれに近いのではないでしょうか。
 わたし自身の体験でいえば、昔インドのダージリンという町でヒマラヤ山脈を見たときの感覚がこれに近いものでした。8,500メートルを越える高さのヒマラヤ山脈を生まれて初めて見たわたしは、表現しがたいほどの感動と喜びにとらわれると同時に、引き込まれてしまうような恐怖感も感じました。その場から動くことができなくなったわたしは、そのまま3時間以上ヒマラヤを眺め続けていました。もし雲が出てきてヒマラヤを隠さなければ、1日でも見ていたことでしょう。インドの人々はヒマラヤを神とみなしていますが、その気持ちがわかるような気がしました。このような体験は、本人にとってはこれ以上がないほどはっきりした体験ですが、言葉で表現し、他人に伝えることは困難な体験だと思われます。

3.宗教の持つ危険性
 宗教の始まりは、このように自分の理解を超えた体験に打ちのめされ、その体験を人間のつたない言葉で表現することにあります。しかし、時がたつにつれてこの体験が忘れられ、不完全な表現だけが宗教として絶対化される場合があります。宗教が恐ろしいものになるのは、そのような場合です。キリスト教の場合でいえば、すべての出発点であるイエスとの出会いの体験が忘れられ、その出会いについての人間的な表現が絶対化されたときに悲劇が起こると考えられます。
 プロテスタント神学者カール・バルトは、すべての宗教は偶像崇拝であり、自力救済の試みであって、信仰と程遠いと言いました。キリスト教もその中に含まれています。超越体験をすべて理解し、表現しつくしたような気になって、特定の表現を絶対化するときに、それは偶像崇拝に他ならないというのです。偶像をもった人間は、もはや神に頼らなくても自分の力で救われると思うようになり、信仰から離れていきます。キリスト教も、宗教の一つとしてそのような危険に陥る可能性があるのです。パウルティリッヒという人は、このことを「宗教の悪魔化」と呼びました。独善的、排他的になった宗教は、神について自分と違った考え方をする人に平気で暴力をふるったり、ひどいときにはそのような人を殺したりするようになります。このような宗教は、悪魔に他ならないというのです。宗教戦争や、魔女狩りのことを思い出すとき、キリスト教もこの悪魔化と無縁だとは言えないでしょう。
 数年前、養老猛という学者が『バカの壁』という本を書きましたが、あの本はキリスト教イスラム教などの一神教が持つこのような危険性をするどく指摘した本でした。自分だけが正しいと考え、他の人の言葉に耳を傾けない人は、自分のまわりに「バカの壁」を張り巡らして、外から聞こえ声をさえぎっているようなものだというのです。

4.無神論
 このようなキリスト教の危険性を目の当たりにした人々の中から、無神論という考え方が生まれてきました。神を信じるという人々のふるまいが、偏狭で排他的な態度であり、暴力や殺人であるならば、神など信じられない。そもそも神など存在しないのだ、という考え方です。無神論には、世界がすべて物質の動きから成り立っているとする世界観的な無神論(マルクス主義唯物論など)や、人間の理解をはるかに越えた神などいないのと同じだと考える無神論、神というのは人間の憧れの投影であり、理想を擬人化したものにすぎないとする無神論などがあります。
 最近は、無神論を主張する人だけでなく、神を信じているという人の間にも形のない無神論がはびこってきていると言われています。神を信じているといいながら、実際の生活は自分の利益だけを考えて生活するような態度は、形のない無神論にほかならないというのです。キリスト教徒も、このような無神論に陥る危険にさらされています。形のない無神論は、キリスト教徒の信頼を失墜させ、ひいてはイエス・キリストに対する不信感さえも生みかねないという意味で、形のある無神論よりも深刻なものだと言えるかもしれません。

5.日常生活の中での超越体験
 話しを超越体験に戻します。宗教の出発点になる超越体験は、歴史の中である限られた時だけに起こるものでしょうか。そうだとすれば、宗教が形だけのものになることは避けられないでしょう。最初のときの感動が忘れられるなら、宗教は命のない言葉や形式だけになっていくでしょう。キリストとの出会いが、もし最初の弟子たちだけに限られているものならば、キリスト教も命を失ってしまったはずです。
(1)ラーナーの教え
 超越体験は、いつどこででも起こりうると考えられます。カール・ラーナーという人は、超越体験と日常生活での体験は表裏一体だと言いました。日常生活で出会うすべての体験の背後には超越体験がひそんでいるというのです。特に病気や肉親との死別、会社の倒産、離婚などの人生の危機に直面し、これまで当たり前だと思っていたことがもはや当たり前だと思えなくなったとき、普段隠されている神秘が現れ出ると考えられます。
わたし自身の体験では、このようなことがありました。結核のため、長期の入院生活をしていたときのことです。入院して数カ月たったある日、知り合いの一人がチューリップの鉢植えを買って持ってきてくれたのです。その鉢植えに数輪咲いたチューリップを見たときに、私はいいようもない慰めと喜びを感じました。元気で歩き回っているときには、道端の花壇に植えられているチューリップなどには見向きもしませんでしたが、そのとき初めてわたしは花の美しさを知ることができました。それまで当たり前と思っていたものが、入院という状況に陥った時に、もはや当たり前のことではなく、神秘的なまでに美しいものとして目の前に現れたのです。ラーナーの考え方に従うならば、これも一種の超越体験だったと言えるでしょう。日常生活での体験の背後には超越体験がひそんでいるとは、このような意味だと思います。
 このような場合以外にも、超越体験はありうるでしょう。たとえば、困っている人を助けるために、自分の時間や労力を犠牲にして本当はしたくないような仕事をしたときに生まれてくる、言いようのない幸福感も超越体験と言えるかもしれません。自分に与えられた使命を淡々と果たすことで生まれる安心感も、ある種の超越体験と言えるでしょう。
(2)マザー・テレサの教え
 マザー・テレサはこう言っています。

「イエスを愛する喜びを、いつもこころに持ち続けましょう。
わたしたちは、キリストと共にいながら幸せでない理由がないからです。
わたしたちのこころのなかにいるキリスト、
わたしたちが出会う貧しい人々の中にいるキリスト、
わたしたちのほほえみ、
そしてわたしたちに向けられたほほえみの中にいるキリスト。」

 つまり、マザー・テレサは日常生活のいたるところでキリストと出会っていたということです。もし見る眼さえあるならば、わたしたちの日常は超越との出会い、キリストとの出会いとのチャンスで満たされているということです。わたしたちが出会うすべての人、彼らが語る言葉や彼らのしぐさの中にもキリストはいるのです。自分のそばにいてくださるキリストにいつでも気づき、キリストと出会う喜びに満たされていたことが、マザー・テレサの活動を支えた力だったと言えるかもしれません。

6.まとめ
 宗教と、宗教の出発点である超越体験の話をしてきました。
 宗教を語るときに大切なのは、人間には神を完全に語りつくすことなどできないという事実を素直に認めることだと思います。人間には、超越体験を完全に語りつくすことなどできないのです。イエスは、言葉と存在そのものによって神を完全にこの世界に示してくださいました。しかし、イエスと出会った弟子たちは、イエスが示したことを完全に理解することができませんでした。その意味で、キリスト教は初めから不完全なものだったことを覚えておく必要があります。完全なのはイエス・キリストお1人だけ、神のすべてを理解しておられる方、真理そのものである方はイエス・キリストお1人だけなのです。もしわたしたちが自分もキリストのように神を完全に理解したと思うならば、それは大きな勘違いと言わざるをえません。もし神を完全に理解したと錯覚するならば、そこからは排他的態度、独善的態度が生まれてくるでしょう。そのような人は、自分の考え方にしがみつき、もはやイエス・キリストの声にさえ耳を傾けなくなるかもしれません。
 キリスト教の勉強をこれから始めるわたしたちに求められているのは、そのような偏狭で尊大な態度ではなく、ただイエス・キリストのみを真理と信じ、イエス・キリストの言葉にひたすら耳を傾けていく姿勢だと思います。旧約聖書箴言は、「主を畏れることは知恵の初め」(1:7)と言っています。神の前で自分の不完全さを自覚し、謙虚な心で神の教えに耳を傾けることこそが知恵の初めだというのです。キリスト教入門クラスの初めに、この言葉を心に刻みたいと思います。