バイブル・エッセイ(9) 義人の死


 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:43-48)

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」、果たしてそんなことができるのでしょうか。
 列王記Ⅰ21章に出てくる、ナボトとアハブの物語を例にして考えてみたいと思います。ナボトとアハブの物語とは次のようなものです。ある時、イスラエルの王アハブはナボトの土地が欲しくなり、ナボトに土地を売るようにもちかけました。しかし、正しい人だったナボトは先祖が残してくれた土地を売ることを拒みます。アハブは仕方なく引きさがりますが、アハブからその話をきいたアハブの妻は、はがゆく思って夫に内緒でナボトを殺す命令を出します。その結果、ナボトは命令通り殺害され、アハブはナボトの土地を手に入れることができました。その後、神は預言者エリヤを使わしてアハブを責めますが、悔い改めるアハブの様子を見て神は罰を思いとどまります。
 この話を読んでいて、義人ナボトは殺されるときに一体どのような心境だったのだろうと思いました。はたしてアハブを憎み、神を呪って死んでいったでしょうか、それともアハブのために祈り、神に感謝して死んでいったでしょうか。
 普通に考えれば、そんなひどい目にあわされたら、相手に対して激しい怒りを感じ、相手に憎しみを抱くのが当然でしょう。そして、そのような不条理なことが起こるのを許した神を呪うのではないでしょうか。ですがわたしは、もしかするとナボトは後者の態度、つまりアハブのために祈り、神に感謝しながら死んでいったのではないかなとも思います。なぜなら、もしナボトが本当に義人だったとすれば、自分の生命や財産に対する執着はなかったはずだからです。不条理な出来事で自分の生命や財産を奪われたとしても、ナボトは決して神を恨むことがなかったでしょう。むしろ、それまで彼を生かし、豊かな財産で養ってくれた神に感謝しながら死んでいったのではないかと思われます。そして、自分を殺そうとしている相手に対しても、神の道から外れた彼らを憐み、彼らが神のもとに立ち返ることを祈ったのではないでしょうか。
 イエス・キリストは、そのようにして死んでいきました。イエスは十字架上で、今から自分の命を奪おうとしている兵士のために祈り、神に感謝しながら死んでいったのです。ですから、もしナボトが本当に義人だったとすれば、イエスのように敵を憐み、敵のために祈りながら死んでいったということもありうると思うのです。ナボトもきっとイエスのように、なによりも神の愛が地上に行われることだけを望み、自分の生命や財産には一切執着しない、心の底からの義人だったのではないでしょうか。
 完全な方である神は、わたしたち一人ひとりにも、そのような義人となることを望んでおられます。神の愛のためには自分の財産や生命さえも惜しまないというほどの信仰が、わたしたちにも与えられるよう祈りましょう。
※写真の解説…福岡市の南公園展望台から見た空。