フォト・エッセイ(21) 沢蟹


 半日だけ休みをもらって、摩耶山に登ってきた。今回は杣谷道から登った。杣谷道は初めてだったが、なかなか厳しい道だった。暑さもあったが、前日の雨で岩が滑りやすくなっていたのには往生した。途中で何回か岩から滑り落ちそうになった。
 杣谷道は別名「カスケード・バレー」(小さな滝の谷)と呼ばれているが、実際、道沿いにたくさんの小さな滝があった。一つ一つの滝で立ち止まりながら写真を撮っていったのだが、一つの滝の前でしゃがみこんでいたとき、足もとに何か動くものを見つけた。よく見ると沢蟹だった。六甲山の水はきれいなのでいても当然なのだが、実際に見たのは今回が初めてだった。
 この蟹にとって、彼が住む沢は世界のすべてであり、全宇宙だと言ってもいいだろう。自分に与えられた世界の中で、彼は懸命に生きている。もし山のどこかで水不足のために死にかけている蟹がいたとして、その蟹のために彼が何もしなかったとしても、誰も彼を責める人はいないだろう。その意味でこの蟹は幸せだ。蟹を見ながら、ふとそんなことを思った。
 なぜそんなことを思ったかと言えば、先日シスター二條の話を聞いて以来「アフリカの人々のために自分に何ができるのだろうか」と考えていたからだ。豊かな日本に住んでいるとはいえ、わたしたちの人生はそれほど楽ではない。みんな社会の中で自分の居場所を見つけ、家族を養い、自分なりの幸せを実現するために懸命に生きている。彼らが好きなものを食べ、きれいな服を着、快適な家で暮らしていたとしても、本来なら誰に対しても負い目を感じることはないはずだ。
 しかし、蟹と違ってわたしたち人間はそう簡単に生きることができない。なぜなら、わたしたちはこの地上のどこかに、今この瞬間にも飢えて死んでいく人がいることを知っているからだ。国連世界食糧計画の発表によれば、現在毎日25,000人が餓死している。そのうちの8,000人は子どもだということだ。単純に計算すれば、1分間に17人が餓死していることになる。彼らは、おそらく最後まで生きることを望み、誰かが食料を与えてくれるのを待ちながら死んでいったはずだ。わたしたちはそのことを知っている。彼らに対してまったく負い目を感じずに贅沢な食事を続けることができる人が、はたしてどれほどいるだろうか。彼らの死は、無言でわたしたちを告発している。そんな気がする。
 アフリカで死んでいく人たちだけではない。日本では毎年、30,000人以上の人が自殺している。彼らの中には、誰かから受け入れてほしい、誰かに自分を理解してほしいと願いながら死んでいった人たちがたくさんいるだろう。自分は「負け組」だ、生きる価値がないと思いこんで死んでいった人もたくさんいるはずだ。そんな弱い人たちのことは知らないと言って、「勝ち組」である自分たちの幸せだけを考えて生活できる人がはたしてどれほどいるだろうか。彼らの死もまた、無言でわたしたちを告発している。大都市の路上で飢えや病のために死んでいく人々の死についても、誰にも気づかれないままアパートの一室で孤独な死を迎える老人たちの死についても同じことが言えるだろう。

 数万の人々の死が、無言でわたしたちの生活を告発してる。わたしは、その告発に対してほとんどなにも弁解することができない。これからも、彼らの苦しみを他人事として横目で見ながら、どこかでうしろめたさを感じつつ生きていく以外にないだろう。わたしは、現代社会の中に生きているというだけで、無数の人々を死に追いやる社会構造に加担しているのだ。心に深く刺さった痛みの棘は、いつまでも抜けることがない。この痛みは、現代人に課された十字架のようなものなのだろうか。
 わたしにできることは、せめて彼らの存在、彼らの無言の叫びを忘れないことくらいだろう。そして、彼らのために何ができるのかといつまでも考え続け、自分にできることから始めていくしかないと思う。最終的な解決は、神様にゆだねる以外にないかもしれない。祈りは世界を必ず変えてくれると信じて、希望を忘れないことも大切だ。そんなことを考えながら、山道を歩いていた。




※写真の解説…1枚目が、見つけた沢蟹。葉っぱの陰に隠れている。2枚目は、杣谷道にたくさんある沢の一つ。3枚目は、ひときわ大きな滝。