昨日、「やぎぃの会」があった。第5回目である今回のテーマは「生きがいってなに?」ということだった。初めにわたしが、8月と10月に「ラルシュ・かなの家」に行ったときに撮った写真を使って、ジャン・バニエが始めた「ラルシュ共同体」のことや「かなの家」のことについて話した。わたしと一緒に「かなの家」に行った若者たちも会に参加していたので、彼らにも体験を分かち合ってもらった。途中で御ミサを立てるために退席したので分かち合いには参加できなかったが、分かち合いも盛り上がったとのことだった。分かち合いのあと、いつものようにイグナチオ・ホールで懇親会をした。今回は、リーダーの1人が小学校の教員に採用されたということで、彼の就職祝いも兼ねた懇親会だった。
青年たちに話をするために、ジャン・バニエの『小さき者からの光』(長沢道子訳、あめんどう社刊)を読み返した。もう何回読んだか分からないくらい繰り返し読んだ本だが、今回読んでみてまた感動を新たにした。
ジャン・バニエの言っていることはとてもシンプルだ。知的障害を負った仲間たちは、家族から見捨てられたり、世間の人々から嘲笑されたりする体験を繰り返す中で、決定的に傷ついている。そのために、自分の存在に意味や価値を見いだせず、自分を大切にすることができない場合が多い。自分を大切にすることができなければ、当然まわりにいる人たちも大切にすることができないだろう。そうやって、彼らは自分たちの周りに深い苦しみと悲しみの連鎖を引き起こしていく。わたしたちが彼らのためにできることは、自分は誰かから愛されている大切な存在なのだと彼らが心の底から信じられるように、彼らに心からの愛情を注いでいくことだけだ。そのためには、まずわたしたち自身が弱く傷ついた存在であることを神の前で認め、心の底から深く癒されている必要がある。自分の弱さを受け入れられない限り、他人の中にある弱さを受け入れることなどできないからだ。知的障害を負った仲間たちとの関わりの中で、わたしたちは競争社会の論理から解放され、ありのままの自分の弱さを愛しながら自由に生きていくことができるようになる。ジャン・バニエはこの本の中で、そのようなメッセージを自分のラルシュ共同体での体験も交えながら訥々と語っている。
「生きがいってなに?」ということが今回の「やぎぃの会」のテーマだったが、その問いは「わたしたちは何によって生きることができるのか?」、「わたしたちはどこから生きるための力を得ているのか?」という問いに置きなおすことができるだろう。家族、仕事、趣味など人によって答えはさまざまだろうが、それらが「生きがい」になるための前提として、自分が自分らしいく生きられる場が与えられていることが必要だと思う。自分がありのままで受け入れられる、自分の居場所が必要だということだ。自分をありのままの自分以上に見せようとして絶えず努力し続けることを、「生きがい」とは呼べないだろう。その意味で、「生きがい」の根本は、自分がありのままで受け入れられる場所があることなのではないかとわたしは思う。そのような場を与えられた時、わたしたちは初めて自分自身を心から愛し、その同じ愛で周りの人たちも愛しながら生きていくことができるようになる。そのときわたしたちを生かしている愛の力こそ、本当の意味での「生きがい」なのではないかとわたしは思う。
共同体の中で受け入れられる体験は、神様の大きな愛に受け入れられる体験と表裏一体だ。共同体の中で心から受け入れられたと感じられたときに、わたしたちは神様から愛されていることを心から信じることが出るし、逆に神様からの愛を実感できたとき、共同体からの愛を心から信じることができる。誰もが「自分はみんなから愛され、必要とされている」と思えるような共同体、そのような共同体の中でこそ人は神と出会うことができるのだ。ジャン・バニエが始めた「ラルシュ共同体」は、そのことをはっきりと自覚し、そのような共同体になることを目指している。わたしたちが「ラルシュ共同体」から学ぶべきことは多いだろう。
※写真の解説…耕運機で畑を耕す「かなの家」の仲間。