バイブル・エッセイ(1032)たとえわずかでも

たとえわずかでも

 そのとき、イエスは群衆に神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。(ルカ9:11-17)

 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言うイエスに、弟子たちは「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」と答えました。だから無理だということでしょう。しかし、イエスはパン五つと魚二匹を神に捧げ、感謝して人々と分かち合いました。ほんのわずかなパンと魚であっても、イエスは人々と分かち合わずにいられなかったのです。

 弟子たちはきっと、パンと魚を自分たちの食料として準備していたのでしょう。何千人もの人に食べさせることは不可能だから、自分たちだけで食べようと考えるのは、ある意味で自然だと思います。しかし、イエスはそうは考えませんでした。たとえわずかなパンであっても、お腹を空かせている人たち、救いを求めて自分のもとに集まって来た人たちと分かち合わずにいられなかったのです。パンを裂いて人々と分かち合うようイエスを駆り立てたもの、それはイエスの愛でした。たとえわずかな人にしか行きわたらなかったとしても、イエスはそのパンを人々と分かち合わずにはいられなかったのです。自分たちだけ食べて、人々に分かち合わないという選択肢は、イエスにはなかったのです。

 これは、とても考えさせられる話だと思います。教会の現状について話し合うとき、わたしたちはつい弟子たちと同じように、「もうこれしか司祭がいません。信徒もいません」、「もうこれしか若者がいません。高齢者も減っていく一方です」というような話しをしてしまいがちだからです。しかし、イエスはきっと、そんなわたしたちを見て嘆いておられることでしょう。もしいま、イエスがわたしたちの目の前にいれば、イエスはきっと、「高齢や病気などの理由で家から出るのが難しい人たちや、困難な情況の中で家族を支えている人たち、社会での競争に疲れた若者たちが、孤独の中で愛に飢えている。その人たちに、あなたたちが愛を配りなさい」と言われるに違いないと思います。イエスは、苦しんでいる人たちを放っておくことができない方。自分に差し出せるものがあるなら、たとえそれがわずかでも、差し出さずにはいられない方だからです。

 教会は「キリストの体」だと言われます。キリストが頭で、わたしたちはその体、キリストの手であり足であり、目であり、口なのです。「キリストの体」は、ただ人々を愛するためだけにある、人々に奉仕するためだけにある。そのことを忘れてはならないと思います。教会は、イエスの愛に満たされ、人々を愛するためだけに存在する共同体なのです。

 教会を自分たちだけのためにとっておく、教会を守ることだけを考えるという選択肢はないといってよいでしょう。もしそのような考え方をし、イエスの愛から離れてしまうなら、わたしたちは「キリストの体」でなくなり、ばらばらになって消え去ってしまうしかないからです。人々に配った結果何もなくなってしまったとしても、教会には配り続けるという選択肢しかないのです。わたしたちがいつも「キリストの体」として、ほんのわずかしかなくても、そのすべてを分かち合わずにいられないキリストの愛を生きることができるよう祈りましょう。

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