教会報記事「新司祭として」


 聖イグナチオ教会報11月号に短い記事を書きました。叙階式でお世話になった聖イグナチオ教会の皆様、本当にありがとうございました。
「新司祭として」
 先日は、トマス神父、アント神父、そしてわたくしの叙階式にご協力いただき、ありがとうございました。お陰様で、3人の新司祭が無事に誕生いたしました。
 新司祭として教会で働く中で今痛切に感じていることは、御ミサを立てるという役割の重みです。司祭の最大の使命はイエスと信者の皆さんの出会いをお手伝いすることにあると思いますが、その使命が最もはっきりした形で実現されるのが御ミサの場だからです。典礼書に従って御ミサを正しく立てるならば、そこにイエスは現存されます。わたしたちは御聖体のうちにおられるイエスを自分の目で見、手で触り、口でいただくことができるのです。そこには、これ以上ないくらいはっきりしたイエスとの出会いがあると言えるでしょう。
 気をつけなければいけないのは、わたしが何か余計なことをしてイエスと皆さんとの出会いを邪魔しないことだと思っています。ミサを立てるときに、「何か間違って笑われたらどうしよう」とか、「いい説教をしなければ」などという思いが出てくることがありますが、そのような心配が起こってくるときは要注意です。そのような心配をしているとき、わたしはもう御ミサの中でイエスではなく自分を見てもらおうと思い始めているのです。そんなときには、ただ典礼書に書かれている言葉の意味に集中し、今ここにイエスが現存しておられること、わたしはイエスのお手伝いをしているにすぎないことを思い出すようにしています。
 ミサが終わって信者の皆さんが「素敵な神父さんだった」とか「いいお説教だった」とか思うのではなく「ああ、本当にイエスと出会うことができた」と思えるような御ミサを立てられるようになりたい、それが今のわたしの一番大きな望みです。
※写真の解説…六甲山ガーデンテラスにて。秋風にそよぐススキ。