バイブル・エッセイ(57) 十字架を背負う

 この説教は3月29日に津和野、乙女峠のマリア聖堂で行った中高生のためのミサでの説教に基づいています。

 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ16:21-26)

 津和野の殉教者たちは、三尺牢などでの拷問を「自分の十字架」と思って耐えたと言われています。ですが、今は迫害のない平和な時代です。この時代に生きるわたしたちにとって「自分の十字架」とはいったい何でしょうか。
 今日は3月29日ですが、今からちょうど一年前の今日、わたしは東京の聖イグナチオ教会助祭叙階の恵みを受けました。昨年9月にはさらに司祭叙階の恵みも受けたわけですが、わたしにとって叙階は恵みであると同時に十字架だと思います。1人でも多くの人が司祭であるわたしの存在を通して神様の愛に触れることができるよう、わたしは自分をできるだけ空っぽにして、いつでも神様の愛で心を満たす使命を背負っています。司祭職とは、イエスにならって人々のために自分の全てを捨てる召し出しであり、背負うべき十字架なのです。
 では、みなさんにとって十字架は何でしょう。皆さんの多くは洗礼を受けていますが、洗礼を受けたキリスト教徒であるという事実こそまずみなさんが背負うべき十字架なのではないかとわたしは思います。キリスト教徒として生きるということは、イエスにならって、イエスが愛したように人々を愛して生きていくということだからです。イエスからたくさんの愛を受けたわたしたちは、その恵みを周りにいる人たちと分け合い、神の愛を一緒に喜ぶように呼ばれているのです。
 人を愛するということは、ときに苦しみを伴います。たとえば、皆さんのお父さんやお母さんは、子どもたちの生活を守るため、毎日会社や台所などで一生懸命に働いています。朝早くから夜遅くまで働くのは楽なことではないと思いますが、みなさんへの愛を貫くためにそのつらさを耐えているのです。皆さんのお父さんやお母さんは、仕事や家事という十字架を通して、家族に自分を捧げているのです。
 みなさんも、キリスト教徒として生きていこうと思えば、必ず何かの十字架を背負うことになるでしょう。誰かを愛するとは、相手のために自分を捨てるということだからです。津和野の殉教者たちのように殺されることはないかもしれませんが、日々の生活の中で愛する人々のために自分を差し出し、少しずつ殉教していくことがわたしたちの殉教なのではないかと思います。
※写真の解説…乙女峠のマリア聖堂と満開の桜。