入門講座(28) 自殺とキリスト教

《今日の福音》マルコ3:31-35
 イエスの母と「兄弟」たちが、イエスのもとにやってきます。イエスが律法学者たちを怒らせていると聞いて、心配して駆け付けたのかもしれません。
 ここでまずイエスの「兄弟」という言葉が問題になります。マリアが終生乙女だったとすれば、イエスに兄弟がいるはずがないからです。ここで「兄弟」という言葉は、近親者を指しているというのがカトリック教会の解釈です。そのことは、マタイ福音書13章55節と27章56節を読み比べると分かります。ここで「イエスの兄弟」と呼ばれているヤコブヨハネは、実は「もう一人のマリア」の子どもたちなのです。「もう一人のマリア」は、きっとヨセフか聖母マリアの親戚だったのでしょう。
 解せないのは、イエスのマリアたちに対するよそよそしい態度です。他の場面でもそうですが、どうもイエスはマリアに対して距離を置いていたようです。先日のお説教でも話しましたが、これは人間的な母子の執着関係を断ち切り、神の前で本当の親子関係を結ぶためだったのではないかとわたしは思います。偏った執着がある限り、人間のあいだに本当の愛の絆が生まれることはありません。母子のあいだに本当の愛の絆が生まれるのは、その意味で非常に困難なことだとも言えます。イエスは、そのような人間の実情を知ってあえて母を突き放したのではないか、そんな気がします。

《自殺とキリスト教
 この10年間、日本では毎年3万人以上の人が自殺するという異常な事態が続いています。先日、司教様方から出された「いのちを守るための緊急アピール」の中でも指摘されているとおり、不景気が拡大する中で今年もたくさんの方たちが経済的、精神的圧迫に耐え切れず自らの命を絶つ可能性があります。
 このような現実の中で、わたしたちは自殺という行為に対してどのような倫理的判断を下すべきなのでしょうか。今回は、そのことを考えてみたいと思います。

1.日本における自殺の現状
 自殺について倫理的判断をする前に、まず日本における自殺の現状を確認しておきたいと思います。
(1)自殺者数の推移
 日本における年間の自殺者数は、この10年間毎年3万人を超えています。1988年から1997年までの10年間に合計224,182人が自殺したのに対して、1998年から2007年までの10年間では実に325,611人が自殺しました。これは、もはや内戦に匹敵する死者数だと言えるでしょう。一見平和に見える日本社会の中で、目に見えない「戦争」が進行しているのです。
※以下、統計の数字は警察庁発表の資料などに基づきます。
(2)1997年
 年間の自殺者数が3万人を超えた1998年の前年、1997年は日本の社会にとって一つの節目になる年だったようです。この年を境に自殺者数が急増したことの背景には、次の2つの理由があるのではないかと思われます。
①家族の絆の崩壊
 この年の2月から6月にかけて、神戸ではいわゆる「サカキバラ事件」が発生しています。この事件の背景には、日本社会における家族の絆の崩壊があるのではないかと指摘されました。
②経済の破綻
 この年は、三洋証券や山一証券など大手証券会社や北海道拓殖銀行など銀行の経営破綻が相次いだ年でもありました。日本経済の破綻が、庶民の生活にも大きな影を落とし始めた一年でした。
(3)国際比較
 世界的に見た場合に、日本の自殺者数は多いと言えるのでしょうか。2004年の統計ですが、日本は10万人当たりの自殺者が24人でした。これは世界で第9位の自殺率になります。最も自殺者数が多いのが旧ソ連の国々で、1位のリトアニアでは10万人当たり40.2人が自殺しています。背景には、社会体制の崩壊の中で、アルコールに溺れて命を絶つ人が多いという事情があるようです。アジアでは、他に韓国(23.8人)やスリランカ(23.8人)での自殺率の高さが目立ちます。
ちなみにアメリカでは10万人当たり11人、イギリスでは7人、フィリピンでは2人が自殺しています。自殺を厳しく禁じるイスラムの戒律が支配するイラン、シリア、ヨルダン、エジプトなどでは、統計上の自殺者が0になっています。
(4)自殺の原因
①第1位・健康問題(48%)
 健康問題の中でも特に多いのがうつ病です。2007年には6,060人がうつ病のために自殺しました。それに対して、身体の病気で自殺した人は5,240人です。
②第2位・経済問題(24%)
 経済問題の中でも特に多いのが多重債務です。2007年には1,973人が多重債務を苦にして自殺しました。その他の債務を抱えて自殺した方が1,656人おられます。
③第3位・家庭問題(12%)
 具体的な形はさまざまでしょうが、夫婦関係や親子関係の不和を苦にして自殺した方がたくさんおられます。以下、職場でのトラブル、男女関係のもつれ、学校でのいじめなど人間関係が自殺の理由として続いていきます。
(5)年代比較
 年代で比較すると、自殺者の中で一番多いのは60歳以上の年代の方々です(37%)。会社が破たんした場合に経済的責任を負いやすい年代であること、病気になりやすい年代であることなどが理由として考えられます。

2.なぜ自殺しなければならないのか?
 全体の状況を概観した上で、今度は自殺という行為がどのような状況の中で起こってくるのかをもう少し詳しく考えてみたいと思います。そうすることで、わたしたちが自殺に対してとるべき態度が見えてくるでしょう。
(1)うつ病
①どのような病気なのか
 自殺理由の第1位になっている、うつ病のことから考えてみたいと思います。うつ病というのは、ストレスなどが原因になって脳内伝達物質のバランスが乱れ、憂鬱や無気力に陥る病気だと言われています。遺伝、薬の副作用、病気の影響などで脳内伝達物質のバランスが崩れる場合もあるようです。
②症状
 わたし自身も何人かの患者さんたちとお話ししたことがありますが、彼らが一様に訴えるのは生きることの辛さです。どうもこの病気は、自分や世界に対する見方を悲観的にするようです。自分自身に対する評価がとても低くなり、「こんな自分には生きている価値がない」と思いこんでしまうのがこの病気の一つの特徴のように感じます。
③本人のせいなのか
 彼らの話を聞いているとその人の性格や価値観に問題があるのかなとも思ってしまいますが、このような悲観的なものの見方を生み出しているのは、初めに言ったように脳内伝達物質のバランスの乱れなのです。本人としては明るい見方をしたいと思っているにも関わらず、脳が言うことを聞いてくれないのです。
 これはとても苦しい状態だと思います。自分でもこう考えたらいいということがよく分かっているのに、そう考えることができないのです。ですから、「もっと明るく考えなさい」などと彼らにアドバイスするのは、あまり意味がないことです。自分を変えられないといういらだちとあせりの中で、ますます症状が重くなっていく場合さえあるでしょう。
(2)経済的困窮
 日本人は、自分の失敗によって社会に大きな迷惑をかけたり、多額の負債を負ったりした場合に、自殺することでその責任をとろうとする場合があります。その背景には、自殺によって罪を償うことを潔よしとし、自殺した人を美化する文化があるのではないかとの指摘があります。切腹や殉死などを美化する価値観が、日本人の意識のどこかにあるようです。経済的破綻という絶望的な状況の中で、その意識が自殺を後押しすると考えられます。
(3)病苦
 末期の癌を宣告された場合や、病が長期化し治る見込みがないような場合、生きる気力を失ってしまう人がいます。競争社会の価値観の中で生きてきた人たちにとって、これはある程度までやむを得ないことかもしれません。存在する価値を失ったことによる圧倒的な絶望が、彼らから生きる力を奪ってしまうのです。
(4)社会的要因
 貧富の差の拡大の中で社会から完全に疎外されたと感じている人たちの中には、2つの極端な傾向が生まれやすいと考えられています。それは自分自身を傷つけることによって社会の中での自分の存在意義を確認しようとする傾向と、他者を傷つけることで社会そのものを否定しようとする傾向です。自傷行為が行きつく先には自殺があると考えられます。

3.カトリック教会の教え
 では、カトリック教会は自殺に対してこれまでどのような態度をとってきたのでしょうか。現在、どのような態度をとっているのでしょうか。
(1)伝統的な考え方
 カトリック教会は伝統的に自殺を、殺人と同じ大罪と見なしてきました。自分を殺すのも他人を殺すのも、同じように生命を司る神に対する重大な反抗と見なされたからです。1917年に発布された教会法典には、熟慮の上で自殺した者から教会での被埋葬権を剥奪するとの規定があります。自殺者のために葬儀ミサを行うことも控えられてきました。
(2)『カトリック教会のカテキズム』
①自殺してもいいのか
 現代のカテキズムも、「わたしたちは神が委ねてくださったいのちの管理者であって所有者ではありません」(2280番)と述べて、自殺を厳しく戒めています。自殺は、自己、他者、世界との絆の破壊であって、神の愛とは正反対のものだと言えるからです。ですから、自殺はキリスト教徒の選択肢には決して入ってくることがありません。
②自殺した人への態度
 ですが、自殺による死者に対する教会の態度は近年大きく変わってきています。カテキズムは、神がわたしたちの知らない方法で自殺者を永遠の救いへと招く可能性を認め、教会が自殺者のために祈ることを約束しています(2283番)。1983年に発布された教会法典からは、自殺者の被埋葬権剥奪についての規定が削除されています。
(3)『いのちへのまなざし』
 『いのちへのまなざし』で日本の司教団は、教会がこれまで自殺を大罪と見なし「自殺者に対して、冷たく裁き手として振る舞い、差別を助長してきた」ことを認めた上で、深い反省の意を表しました。その上で「これからは、神のあわれみとそのゆるしを必要としている故人と、慰めと励ましを必要としているその遺族のために、心を込めて葬儀ミサや祈りを行うよう、教会共同体全体に対して呼びかけていきたいと思います」(62番)と述べています。

4.自殺なのか殉教なのか
 病気を苦にして線路に飛び込んだり、絶望して高い所から飛び降りたり、大量の睡眠薬を飲んだりするようなケースは、はっきりと自殺と言えるかもしれません。ですが、自殺かどうかはっきりとは言えないケースもあります。
(1) 境界事例
高額の治療を受ければ助かるのに、家族の負担を思ってあえてその治療を拒んだ場合、仲間を裏切れば助けてやるぞと迫られたのに、あえて裏切らずに殺される場合、落ちる可能性が高い飛行機に乗って仲間を助けに向かい、墜落して死んだ場合、それは果たして自殺なのでしょうか。どれも、いわゆる「自殺行為」に違いありませんが、自殺と言うのはためらわれる事例ばかりです。
(2)イエスの死
エスが十字架上で死を選んだのは自殺だったのでしょうか。自分が言ったことを撤回しさえすれば助かったのに、あえてそうせずに殺されたのだから自殺行為だと考える人もいるでしょう。殉教についても同じことが言えます。
(3)判断基準
 では、キリスト教的に考えた場合、自殺かどうかの判断基準はなんなのでしょうか。
エスのように、その死がもし他者のための自己犠牲である場合は自殺と言えないでしょう。それは、神の御旨を実現するために選んだ死だからです。自殺というのは、苦しみや悲しみから逃げるために自分から死を選ぶようなことを言うのだと思います。そのような死は、わたしたちに命を与えてくださった神の御旨に背くものだからです。
このように考えてくると、誰かの死が自殺だったのかどうかを他人が判断するのは極めて難しいと言わざるを得ません。結局のところ、自殺についても神だけが最終的な判断者なのではないかと思います。

5.まとめ
 現代において、カトリック教会は自殺に対して次のような態度をとっていると言えるでしょう。
①生命は神からの賜物であって、人間がそれを神の御旨に反して絶つことはゆるされない。
②しかし、自ら生命を絶たねばならないほど苦しんだ挙句に死んだ人々を、神が救いたいと望まないはずがない。
③教会は、苦しみの果てに自殺した人々が永遠の救いに到達できるように祈る。
④そのような苦しみに追い込まれる人がいなくなるよう、教会は社会に対して働きかけていく。

 日本における自殺の現状を考慮しても、カトリック教会のこの判断は妥当なものだと考えられます。自殺まで考えてしまうほど精神的に追い詰められた人たちに、どのようにして福音を届けられるのかが、これからの大きな課題でしょう。
《参考文献》
・『カトリック教会のカテキズム』、カトリック中央協議会、2002年。
ヨハネ・パウロ2世、『いのちの福音』、カトリック中央協議会、1996年。
・日本カトリック司教団、『いのちへのまなざし』、カトリック中央協議会、2001年。
・ヘーリング、ベルンハルト、『生命・医・死の倫理』、サンパウロ、1990年。