マザー・テレサに学ぶキリスト教(10)イエスとは誰か②〜十字架の意味

第10回イエスとは誰か②〜十字架の意味
 夏のさまざまな行事に追われて長いあいだお休みしていましたが、「マザー・テレサに学ぶキリスト教」シリーズのアップを再開したいと思います。どうぞよろしくお願いします。
Ⅱ.十字架の意味
 マザー・テレサは次のように言っています。
「あたかも人間となったことだけでは不十分であるかのように、神の偉大な愛を示すためにイエスは十字架上で死にました。イエスは、あなたのため、わたしのため、ハンセン氏病の患者のため、空腹のために死にかけている人のため、裸で道に横たわっている人のために十字架上で死にました。」
 なぜ、十字架上でのイエスの無残な死が「神の偉大な愛」を示すと言えるのでしょうか?なぜ2000年前に起こったイエスの死が、現代に生きるわたしたちにとって救いなのでしょうか?なぜ、わたしたちのためにイエスが死んだと言えるのでしょう?わたしたちとイエスの死と、一体どんな関係があるのでしょうか?今回は、これらの問題について考えてみたいと思います。

1.贖いの「いけにえ」
(1)ユダヤ教の「いけにえ」の伝統
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」(ヘブライ5:7-10)
 イエスはなぜ大祭司と呼ばれたのでしょう。
 そもそも、祭司とは牛や羊、鳥などを「いけにえ」に捧げることで神の怒りをなだめ、神と人間の関係を一時的に回復する人のことです。祭司としてのイエスは、多くの苦しみを耐えることによって自分自身を神に捧げていき、十字架上でついに自分の命さえも捧げました。そのことによって、神と人間の関係を完全に回復したのです。それゆえ、イエスはただの祭司ではなく大祭司と呼ばれます。イエスの生涯という完全な「いけにえ」によって、旧約の全ての「いけにえ」が完成されたのです。
(2)全人類の罪の贖い
 「今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ローマ人への手紙3:21-25)
「神の義」とは、神との正しい関係のことです。神を愛し、また神から愛されることだけで満足する関係こそ人間の神に対する正しい関係だと言えます。
それに対して、「罪」とは神との正しい関係の破壊のことです。神の愛から背を向け名誉、物欲、愛欲、権力などに執着するとき、神と人間の関係は破壊され、そこに罪が生まれます。
 イエスという究極の「いけにえ」、「贖いの子羊」が捧げられたことで、人類と神の関係が完全に回復されました。イエスの死によって、人間の罪が取り除かれたのです。その意味で、イエスの十字架は時代を越えて全人類の救いの源だと言えます。
★この考え方は、パウロ以来の伝統的な見解ですが、なぜ神が人類の救いのために「いけにえ」を要求するのかがよく分からないという弱点があります。イエスの十字架以前には、神は人類を愛していなかったのでしょうか?神は「愛の神」ではなく「怒りの神」なのでしょうか?この部分を補完するために、神学者たちはもう一つの説明を考えています。
2.神の愛の完成
 イエスの死は、人間の神に対する愛の頂点であると同時に、神の人間に対する愛の頂点だと言えます。イエスという人間が自分を完全に神に明け渡したとき、神の愛が完全に人間を満たしました。そのとき、神と人間のあいだにもはや壊れることのない完全な結びつきが生まれたのです。
(1)人間の神に対する愛の頂点
 人間の神への愛は、日常生活の中で神への愛ゆえに自分を乗り越えていくこと(自己超越)の中にあります。それゆえ、神への愛ゆえに自分の命さえ差し出したイエスの十字架上の死は、人間の神に対する愛の頂点なのです。人間に神の愛を伝えるという使命のために、イエスは自分の全てを超越しました。
(2)神の人間に対する愛の頂点
 人間の中に自分自身や他の被造物への執着が残っていれば、神の愛はその人の心を満たすことができません。その人が自分をすべて差出し、完全に空になったときにだけ、完全な神の愛がその人の心を満たします。イエスは、十字架上で完全に空になり、神の愛の完全な器となったのです。

3.全人類の救いの先取り
 十字架上で実現した神と人類の完全な結びつきは、もはや壊れることがありません。イエスの十字架を目指して進んでいくならば、わたしたちも十字架を通って神の完全な愛と結ばれることができるのです。十字架は、神と人類との間に結ばれた唯一の懸け橋だと言えます。全人類の救いが、イエスにおいて先に実現したのです。

4.全人類の模範
 マザー・テレサは次のように言っています。
「イエスが十字架上で死んだのは、わたしたちのために必要だったからです。わたしたちを利己心や罪から救うために。わたしたちも神の御旨を行うために喜んですべてを差し出さなければならないこと、イエスがわたしたち一人ひとりを愛したように、わたしたちも愛し合わなければならないことを示すために、すべてを差し出したのです。」
 イエスの十字架は、全人類の生き方の模範です。十字架上のイエスのように、自分の全てを神に差し出すならば、わたしたちも必ず救いに到達することができるのです。日々、自分のエゴを捨て、自分を十字架にかけることによって、わたしたちは日々救いの先取りを味わうことができます。神への愛ゆえに自分を乗り越えたとき、神の愛がわたしたちの心を満たすのです。

5.まとめ
 「キリストの十字架こそ、時代を越えた全人類の救いである」というキリスト教の途方もない主張の意味を理解していただけたでしょうか。十字架は、全人類と神との関係を回復する生贄の場であると同時に、全人類と神との愛の絆が完成した場でもあるのです。その意味で、十字架こそわたしたちにとって救いの約束であり、目指すべき模範なのです。だからこそ、キリスト教では十字架を何よりも大切にし、十字架の前で祈ります。今度、教会に来たとき、そう思って十字架を見上げてみてください。きっと、十字架が違った輝きをもって見えるはずです。