バイブル・エッセイ(956)身代わりの死

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身代わりの死

 そのとき、イエスはニコデモに言われた。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:14-21)

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」とイエスは言います。イエスが十字架につけられることによって、全人類の前に神の愛の偉大さが示され、救いへの道が開かれるというのです。ですが、なぜ「上げられねばならない」のでしょう。救いの道を開くために、他の方法はなかったのでしょうか。

 イエスが十字架につけられることによって、弟子たちはどのような意味で救われたのでしょう。イエスが十字架につけられたとき、弟子たちは悲しみに打ちのめされたと思います。イエスが自分たちをあれほどまでに愛してくれたのに、自分は裏切ってしまった。神の愛を深く信じ、救いへの道を見つけ出したと思ったのに、その道を自ら放り出してしまった。弟子たちは、そう思って後悔したに違いないのです。弟子たちにとってイエスは、ふがいない自分たちの身代わりとなって十字架につけられ、自分たちの代わりに神への愛を貫いた方だったと言ってよいでしょう。イエスは救いへの道を貫いて永遠の命に至り、弟子たちは貫くことができず、苦しみの闇の中に取り残されたのです。

 そんな弟子たちに、神は助けの手を差し伸べます。復活したキリストを、弟子たちのもとに遣わしたのです。イエスを裏切って逃げ出すという罪を犯した弟子たちでさえ、神は放っておくことができませんでした。「あなたがたに平和があるように」というイエスの一言によって、弟子たちが犯したすべての罪をゆるし、心をかき乱す不安や恐れを消し去り、弟子たちの心に平和をもたらしたのです。この出来事によって、「イエスこそ、真の救い主。イエスは、わたしたちを裁くためではなく、救うために来られた」ということを、弟子たちは深く悟ったに違いありません。弟子たちは再び神の愛と深く結ばれ、永遠の命へと続く道を歩み始めたのです。

 この出来事の後、弟子たちはもう二度とイエスを裏切ることがありませんでした。十字架と復活によって、神の愛から離れることの苦しさと、神を裏切った自分たちでさえゆるしてくださる神の愛の深さを知った弟子たちは、もう二度と神の愛から離れることがなかったのです。これこそ、十字架と復活による救いの意味ではないでしょうか。十字架と復活の体験によって、弟子たちは、もはや何者も引き離せないほど固く神の愛と結ばれたのです。神との間に結ばれたこの愛の絆こそ、弟子たちに与えられた救いだったと言ってよいでしょう。弟子たちは、十字架上でのイエスの身代わりの死によって救われたのです。

 イエスが世に与える永遠の命とは、死んだ後のことだけではなく、いまこの時を神の愛に満たされて生きることを意味しています。欲望や罪に縛られた古い自分に死に、神の愛に満たされて生きる。すべてを神の手に委ねて何も心配せず、心を満たした愛に突き動かされ、神から与えられた使命を果たしてゆく。それこそが、永遠の命を生きるということであり、わたしたちに与えられる救いなのです。四旬節の中にあって、弟子たちの体験した十字架による救いの意味を自分たち自身の体験に重ねて味わい直し、神との絆、救いの絆をより確かなものとできるよう共に祈りましょう。