バイブル・エッセイ(112)御心ならば


 エスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。
エスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。(ルカ5:12-16)

 全身を重い皮膚病に侵され、ぼろぼろになった人がよろけるようにしてイエスに近づいてきます。もしかすると、杖をついていたかもしれません。服はあちこち破れ、ひどく汚れています。イエスの前に出ると、彼はひれ伏してイエスを主と拝み、言いました。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」
 これは、とても心を揺さぶられる出来事だと思います。激しい痛みや孤独の苦しみにさいなまれ続けてきた人が救い主を前にしたとき、ふつう出てくる言葉は「どうか治してください」ということでしょう。しかし彼は「御心ならば」とまず最初に言いました。ここに、この人の深い信仰が現れていると思います。痛みと苦しみにあえぎ、病に命さえ脅かされる中で、彼はすべてを神の手に委ねたのです。彼が願っていたのは、自分の思いが行われることではなく、ただ神の御心が行われることだけでした。この場面を通して、病との戦いの中でも消えない人間の尊厳の輝きを見るような気さえします。
 この人の言葉は、天使から受胎告知を受けたときのマリアの言葉を思い起こさせます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉に凝縮されたマリアの信仰を、この人もひれ伏すという行いと「御心ならば」という言葉によってまったく同じように生きていたのです。マリアはイエスを懐胎することを、この人は健康な体に戻ることを、ただ神の御旨だけに委ねたのです。ここに、イスラエルの最高の信仰が示されていると言っていいでしょう。
 この2人にならってわたしたちも、喜びのときも悲しみのときも、生きるにしても死ぬにしても、すべてを神に委ねたいものです。どんなときでも、自分の思いを越え、祈りの中でただ神の御旨だけを求め続けましょう。
※写真の解説…湖畔の雪原。