バイブル・エッセイ(349)聖母マリアの幸い


聖母マリアの幸い
 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ1:39-45)
 イエスの母、マリアは幸いな方と言われますが、その幸いはいったいどこにあるのでしょう。マリアが受けた栄光とは、いったい何なのでしょう。その幸いや栄光は、わたしたちとも関係があるのでしょうか。
 そもそも、マリアはなぜイエスの母として選ばれたのでしょう。それは、マリアにおいてイスラエルの信仰が頂点に達したからです。長い歴史の中で数々の試練を経て浄められていったイスラエルの信仰は、ナザレという片田舎の町に住む一人の少女において、このときついに完全なものとなったのです。これまでの歴史の中で、マリアほどの謙遜をもって、神に自分のすべてを委ねられる女性はいませんでした。神の母となってキリストを育てられるほどの信仰をもった女性は、誰もいなかったのです。「時が満ちて」神は一人子を世に遣わしたと言いますが、「時が満ちる」とは、まさにマリアにおいてイスラエルの信仰が頂点に達し、御子を地上に送って全人類の救いのための業を始める準備が整ったということを意味しています。ここにマリアの幸いがあります。
 マリアは、イエスの誕生のときから、その全き信頼と委ねによって「神の母」としての役割を完全に果たしました。エスの身に起こることをすべて「心に納めて思い巡らし」、イエスにおいて実現しようとしている神の御旨に干渉することがなかったのです。マリアは、自分が神のはしために過ぎず、神がイエスを通して何を実現しようとしておられるかを自分は知らないということを知っていました。マリアがしたのは、イエスにおいて神の御旨が実現してゆくのを母の愛で優しく見守り、支えることだけでした。
 マリアは、苦しみのときもイエスの傍らから離れることがありませんでした。イエスが神の御旨のままに十字架につけられ、死んでゆくことを選んだとき、マリアはそれを受け入れ、最後までイエスの苦しみに寄り添ったのです。無意味とも思える息子の決断を受け入れ、十字架上で無残に殺されていく息子の傍らに立って、息子の苦しみに寄り添い続ける。そんなことができたのも、まったき謙遜と神への全面的な委ねがあったからこそです。
 マリアの幸いは、まさにその謙遜さと委ねにこそあるのです。マリアが受けた栄光もそこにあります。息子が全人類の救い主になり、世界的に有名になったからマリアは幸せだ、栄光に満ちている、そんなことではありません。
 もし救い主の母になったことだけがマリアの幸いであり、栄光であるなら、それはわたしたちとは関係のないことでしょう。ですが、神の前でのまったき謙遜と委ねこそが幸いであり、栄光であるならば、それはわたしたちとも大いに関係があります。わたしたちも、マリアに倣って神の前で謙遜に生き、人生のすべてを神に委ねることで、マリアと同じ幸いや栄光に与ることができるはずだからです。謙遜な神のしもべとして、子どもや家族、周りの人々と神の間で実現しようとしている救いの業を、愛情深く支えていくこと。神に信頼して、人々の苦しみに寄り添い続けること。それらのことを通して、わたしたちもマリアの幸い、マリアの栄光に与ることができるよう、心から祈りたいと思います。
※写真…神戸、須磨離宮公園のバラ。